原発問題の議論は外形をいくらなぞってみても答えを導き出すことは出来ない。物事の形象には数カ所の「起点(視点)」が必要である。原発問題においてはこの「温排水」の問題が最大の「起点」になりうるのだ。
確かに「脱原発」は模範的回答であることには間違いはない。つまり、正解である。しかし、その実行は極めて厳しい。我が国は核兵器に転用可能なプルトニウム利用も含む原子力利用の包括的拡大に固執してきた。そのために、経済的には引き合わないにもかかわらず、もんじゅが建設され、再処理工場が設置され、軽水炉におけるプルサーマル計画が推進されてきたのである。
「温排水」の問題は、海水温の上昇による、温暖化や環境破壊に繋がる地球規模の問題でもある。いつまでも実現可能性の不明確な「脱原発」の議論に費やす時間はない。超小型高速炉による原発の地産地消、つまり、東京や大阪などの都市部において自前の原発を設置すれば、送電コストも浮いてくる。熱エネルギーの70%を廃熱として海に捨てている「温排水」を熱パイプで都市中にくまなく循環させて膨大な熱エネルギーを供給するコジェネレーションシステムの確立という現実的な選択肢も浮かび上がってくる。つまり、「都市原発」である。
我々の「視知覚」は対象の一面のみを捉え知的理解は事象の因果関係だけを汲み上げる。もし考察対象が物理的な立体であれば、そこには無数の視点と無数の理解の道筋があり、それだけで物的存在が人間の知覚理解の限界を超えるものであることが意味されている。つまり,立体は知覚で完結するものではなく,それが繰り返し解釈されることによって浮かび上がる認識のまとまりであり、いわば未知の総体としてアプリオリに前提されているのである。アプリオリとは、経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念である。
0コメント