「議員」とは自立も覚悟もなく、
ゴロゴロ転がっている「球体人形」だ。
議員が行う政策実現は、必ずしも議員個人の意志によって行われているものではない。議員の背後には所属する政党の圧力団体・支援団体がおり、そういった有権者たちの利益に反する政策の実現は難しい。結局、政策を議員が実行に移すのは、数多くの政治主体によって背後で意思決定がなされた後であり、そういう意味では議員は「人形」にすぎないとも言える。また、多くの議員は政党に所属しているので、政党に縛られることも少なくない。議員はたしかに立法に携わってはいるものの、調整事が非常に多く身動きはかなり取りづらいというのも事実だが、原初的には議員という身分においては総じて志もなく、その権威にあぐらをかいて現実社会の様々な矛盾に対し、自立も積層もできずにゴロゴロ浮遊している「球体人形」のようである。
「囲碁」と「チェス」、
チャレンジメーカー(政治家)と議員(球体人形)との違い
トランプの台頭は、アメリカという〝場面〟で展開される〝エスタブリッシュ〟と〝マルチチュード〟の囲碁戦であり、アメリカ大統領は「チェス」の王様ではなく、トランプも一つの「囲碁」の駒に過ぎないのだ。
ソーシャリングのチャレンジメーカーは答えの出ないところで強さを発揮する。「自分にしか打てない」「打ちたい所に打つ」を信条とし、あらゆる〝場面〟を自在に打ち分け、自分が最善と思った手は愚形や悪形であっても常識に囚われずに打つ。勝負手を発見すると時間を惜しみなく使い切る。
「チェス」の駒は、その役割に応じてコードに沿った動きをするが、これに対して「囲碁」の駒には戦線もコードもなく、戦略如何によって、いかなる地点にも出現しうる。「囲碁」の駒は、突然現れパラダイム・シフトを呼び起こすのである。
現在の〝場面〟において最も必要なのは、状況を劇的に変化させる「捨て石」である。「捨て石」とは、後々の局面で自らの形勢を有利にするため、わざと相手に取らせるように打つ石のこと。さしあたって効果がなく無駄なように見えるが、将来役に立つことを予想して行う行為のことである。
ソーシャリングにおける「非権威」ー受動的不服従は自己の思想に内在的な運動の抽象的な否定でなく、そうした自己運動自体を具体的普遍たる全社会体系の変動の契機(モメント)として積極的に捉える努力を試みることである。無意識の世界で我々を規制している政治的なものの考え方の中でも一番基底にあるもの」が「権威信仰」である。
多くの議員(球体人形)の発想は、昔の国家間戦争のドグマから抜け出すことができない。今、国家による「チェス」の話をすること自体、もともと出発点でずれている。「囲碁」の場合、駒(碁石)は白と黒によって敵と味方を区別されるにすぎない。駒たちはすべて無名で、特性がなく全て平等である。これに対して「チェス」の駒は、序列化された階層構造の中で明確に役割を与えられている。その機能を変化させることはなく、最終目標のために任務を遂行する。「チェス」の駒は、その役割に応じてコードに沿った動きをするが、これに対して「囲碁」の駒には戦線もコードもなく、戦略如何によって、いかなる地点にも出現しうる。「囲碁」の駒は、突然現れる。突発的な権力行使によって、状況を劇的に変化させることが出来る。「チェス」が国家運営のゲームであるとすれば、「囲碁」は戦争機械を運営するテロリズムに対するゲームであると言えるだろう。「チェス」は単一の中心=王様をもつが、「囲碁」は単一の中心をもたない。
ソーシャリングの中核は、有権者と政治家が同意するずっと前に、将来を見据えた行動を起こさなければならないと考えている無名の人々だ。また、この「グループ」には将来的には国家や団体の、先見の明あるリーダーも参加する。人類の長期的な未来のために戦うことを目的として組織されたNGOや世界組織も、この集団の強力メンバーに名乗りををあげるはずだ。
ソーシャリングー政治の構成的プロセスはチャレンジメーカーが担い、
彼らの存在は、まさに政治家のそれである。
一方で、ソーシャリングにおけるチャレンジメーカーであればこのような制約はない。ソーシャリングは特定の政党とベッタリくっついて行うものではないので、超党派で身軽に動くことができる。しかも、「球体人形」である議員とは争わず、衝突もしない。
日本には、ロビイストの概念もなく、その絶対数が圧倒的に少ないという。それ以前に、ロビイングという手段の存在自体を知る人自体がかなり少ない。ここは今さら周回遅れのロビイングの後追いではなく、ソーシャリングは、より主体的に、より直接的に、より芸術的に運動を展開していく。議員や官僚に頼りっぱなしで、ただ批判をするだけでは世の中は変わらないのだから。
今までのように問題の解決を国や行政の既存の仕組みに任せているだけでは進まない、一人一人が動くしかなく、「立ち上がれ」というのが全世界で起きているさまざまな紛争や災害や高齢化、貧困などの現象に通底するメッセージである。
〝STAND 3.0〟
ソーシャリングのスタンド原理
『今後数十年間で、人々の心の中に地球規模の意識が出現するであろう。その本質や大きさは今のところ分からないが、数年後には、世界は距離がなくなり、クラウド・シンキングのその新たな意識は、私たちに論理的な結論をもたらすだけでなく、他の人々のタスク(行動)を通じて、世界中で群発的に発生する。「スタンド」という運動は別に誰かが「そうしよう」と決めるわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものである。
「スタンド」とは、個の「自立」と「覚悟」の概念だ。今後、世界中の紛争地区被災地区で群発的に「スタンド」がわき起こる。世界の構築に参加する諸々の主体からなる多様体のなかで共有し、特異的形象を発明する。芸術は、スタティックな、モニュメンタルな造形を想像することではなく、スタンドと化した構想的プロセスのことである。スタンドはこの文脈において、言語表現やシーニュではなく、潜勢力であり「芸術」なのである。
「スタンド」とは、個の「自立」と「覚悟」の概念だ。
今後、世界中の紛争地区や被災地区で群発的に「スタンド」がわき起こる。
人類はすざましい災害や劇的な紛争や事件が起きた時にパラダイムシフトが起こる。『今後数十年間で、人々の心の中に地球規模の意識が出現するであろう。その本質や大きさは今のところ分からないが、数年後には、世界は距離がなくなり、クラウド・シンキングのその新たな意識は、私たちに論理的な結論をもたらすだけでなく、他の人々のタスク(行動)を通じて、世界中で群発的に発生する。「スタンド」という運動は別に誰かが「そうしよう」と決めるわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものである。
日本のオルタナティブカルチャーに共感するという数億人の「ジャパン支持者」を世界中に作りだす。
国家によるイノベーションに駆動されて加速度的に変化し成長し続ける世界というイメージはもう終わりに近づいている。テロとの戦いなどは〝共同体〟をめぐる芸術の〝囲碁戦〟だ。「テロ」との戦争を言い出したときから、戦争には輪郭がなくなり、そのあおりで世界中にしだいに戦争が拡散しているという気配が出来上がっている。多くの政治家の発想は、昔の国家間戦争のドグマから抜け出すことができない。今、国家による「チェス」の話をすること自体、もともと出発点でずれている。国家はそれが「悪いもの」だからその役割を終えるのではない。
また、HECPは、国家に抗する反国家の〝共同体〟という意味ではなく、国家や行政区分の概念を超えた、現実態としてそれぞれの地域やそこに住んでいる人々が、住んで生きられる状況をつくっていく「非国家」としての機能を果たす。そのためには、国家は基本的で一次的な秩序形成だと言える。現代社会はイスラムでもない、アメリカングローバリズムでもない、「世界国家なき世界社会」の普遍性と摂理に基づいたHECPの実現が求められているのである。
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