「若者」はなぜ、「テロ」の思想に共鳴するのか?

「差別、格差、貧困。いろいろな理由で現状に不満を持ち、絶望を感じる「若者」には信じられる大人がいない」


『アラブ系の親を持つイギリスの若者が、家族でイスラエルによるガザ空爆のニュースを見る。親は『イスラエルはひどい』と言いながら、自分は何もせず、そのイスラエルを支持するイギリスの社会で、白人からの差別にも甘んじて生きている。大人の妥協は汚い、どこまで卑屈なんだ、と。そういう多感な時期の若者に、ISははっきりと“滑走路”を示す。おまえには居場所がある、とにかくここから飛べ、と。』

社会における体制や権威に反発をするのは、ある意味で、「若者」の一つの姿である。こうした「若者」は、「ミニバイク」で街中を走り回る連中とは全く異なる。ヒューマニズムやコミュニズム、アナーキズム、リベラリズム、 エコロニズム等々。 こうした「若者」たちには様々な〝イズム〟がある。 しかし、その入口は、世の中の不正や理不尽な仕打ちに対する純粋な「正義感」である場合が多い。

 もともと、思春期から青春期にかけては、自立していく時期である。その時期に世の中の不正や矛盾に気が付いた時、純粋な「正義感」から問題を提起し、行動することに対しては、真摯に耳を傾けなければならない。子供じみた反抗だなどと思い上がった考えに囚われていると、「若者」達を誤った方向に追いやってしまう。テログループはそうした若者達を待ち受けて「リクルート」活動を行なっているのである。そして、テログループは理想と現実のはざまで揺れる若者の心の隙に入り込み、過激なやつほど力を持つ構図の中で「ジハード(聖戦)」を仕掛ける戦士に駆り立てていく。

現代社会には「若者」の心を捉える「思想」も「実践」もない。今の「若者」に、問題意識や考えがないというのは、私たち「高齢者」が、戦後において「紙幣」と「娯楽」の追求という〝心性〟を「平和」と「民主主義」という言葉で覆い隠し、「若者」に伝承できる「思想」を作り上げてこなかったことに尽きるのではないか。いつまでも「政治」や「社会」の責任にしていてもキリがない。私たち「高齢者」は、自覚するべきである。

 「高齢者」が「若者」に懐古的な経験談を語るのも悪くないが、過去の「左翼闘争」の自慢を語っても意味がなく、薄っぺらな「ナショナリズム」を煽っても全く意味がない。ここは、「高齢者」は「若者」が腰を抜かすような、圧倒的な〝イズム〟を示さなければならない。それは、過激な言葉などではなく、実践による「芸術」のような〝ビッグピクチャー〟である。これからの「高齢者」は未来の「若者」のための「捨て石」であるべきでる。「高齢者」が社会から尊敬されなくなったら、もうおしまいだ。

そして社会を〝イズム〟の「碁石(いし)」で「囲む」ことにより、暴力でしか不正や世の中の矛盾を正せないのだと思い込む「若者」を、〝思想〟なき過激や急進のテロリズムから守っていくことが最大の「高齢者」の仕事である。

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