倫理消費者による「日産・三菱自連合」の市場からの退出のシナリオ。

参議院戦よりもエスタブリッシュメントは〝ビビる〟
「争わない、衝突しない、対決しない。」〝レファレンダム〟ーひたすら買わない運動。



「黒い猫でも白い猫でも、ネズミを捕るのが良い猫だ」


これは、鄧小平の言葉としてよく知られて いる。今回の燃費騒動は、多くのネズミを獲るために、「白い猫」が「黒い猫」を招いたような構図だが、実は自作自演で「黒い猫」が「黒い猫」と手を結んだと考える方が合理的である。仮に、前者であったとしても「黒い猫」は「白い猫」に生まれ変わることはありえない。生まれ変わるチャンスというのは一回限りだからだ。


今後日本の自動車産業は、トヨタ・ホンダを中心に、マツダ、スバル(富士重工)、ダイハツ、スズキなどと資本関係は別としてお互いの長所を学びながら、その都度の占有率などに一喜一憂せず、「白い猫」たちが、日本のモノ作りの伝統的理念を大切にした〝ひとつの塊〟として発展していくべきである。スズキの鈴木会長も決算会見で、シェア争いが激化した2016年3月期の軽自動車市場について「(コモディティ化した)白物家電の二の舞いになるのではないかといった現実を見た」と振り返り、昨年10月以降、「お行儀の悪い売り方をやめた」と説明した。極めて賢明な判断だと言える。


〝パナソニックリスク〟の教訓


企業のレゾンデーテルが規模の膨張でしかなく、メイドインジャパンのモノづくりを忘れた際限のない膨張主義の敗北が、あたかも円高=悪という「気」を生み出し、 政府のアベノミクスという劇薬の金融政策の介入を許してしまった。 このままうかれたままで、政府の言うところの規制緩和や成長戦略が実行できなければ、インフレからバブル、ひいては国債の暴落が待っている。日本経済のその悲惨な顛末は〝パナソニックリスク〟としてリーマンショックと並び称され、後世まで語り継がれることとなる。


今回の提携は、日産が今後進める三菱自の経営状態の査定作業で、燃費不正問題が想定以上の損失を生む可能性が判明すれば「白紙撤回」も視野に入るというような、モノ作りとは全く関係のない、まるでゲーム感覚のような非常に薄っぺらいものである。

ルノー日産・三菱自は、国産メーカーのモノ作りの思想とは相容れない。今後は外資企業として歩むべきであり、

日本の倫理消費者の射程からは外れる。

今回の資本提携により、ルノー日産と三菱連合は、トヨタ、フォルクスワーゲン、GMに接近する世界第4位の地位を固める。日産のカルロス・ゴーン社長兼CEOは、今回の資本提携に際して、「新たな自動車産業の勢力ができあがる」と述べており、将来的には、世界トップ3も視野に入ることになりそうだ。


今こそ、志のある「倫理消費者」による、

買わない選択を。


日本社会は日産・三菱自のような「日本にとってよくない」企業に対しては、どんなに時間がかかっても市場からのイジェクト=退出を求めていく覚悟が必要になってくる。元来、日本人の国民性は「熱しやすく、冷めやすい。」と言われ、今までにおいても、様々に社会を騒がせた「巨悪」と言われる企業犯罪についても、マスコミメディアにとって、三菱自のような大企業の広告クライアントに対する追求には、おのずと限界があり、過去のリコール隠し事件などにおいても喉もと過ぎればその学習を怠り、その緊張感のなさはいつまでたっても変わることがない。今こそ、ターゲットをピンポイントに焦点化し、MITSUBISHIブランドの商品を市場から退場させることにより、多くの企業に対する緊張感を生み出し、企業全体に消費行動の「スペンドシフト」を認識させることが重要である。検察をはじめマスコミは、企業規模が大きいことによる社会的影響を考慮し、本来自らが成すべき責務が果たせず、このままでは今までのように問題の本質は闇に葬られ、今後も同じようなことが繰り返され、社会全体の志気は下がり、新たに発生する問題が万が一にも、東芝のような原発企業の運営に関わる重大な局面を迎えることになっても、その時にはもう後の祭りなのだ。この倫理消費者による不買レファレンダム=直接投票は10年20年、場合によっては30年以上かかるかも知れないが、未来の子供達のためにも、問題企業にはその責任に応じた社会的制裁を受け、悪いことをすれば、社会から退出される状況を政府や行政だのみではなく、消費者の力により構築しなければならない局面にきているのである。これからは、代議制に頼らず国民が直接目指すべき社会を作っていくのが合理的である。こうした運動は「争わない、衝突しない、対決しない」を理念とし、企業やマスコミメディアに対しても強圧的なアプローチは行なわず、売り場での購買時点における意思表明だけです。ただ、購買行動においてその理由の合理的な説明を行い、ひたすら「買わない」だけなのである。


消費者は単に自己の利益だけでなく、国内のみならず国境を越えた他国の人々や、時間を越えた子孫のことまでも考慮した商品選択を行なうことが求められている。すなわち、製品の生産者である企業のみならず消費者にも環境配慮、社会配慮の社会的責任があると言え、大げさに言えば、製品を選択するその瞬間こそが、消費者が世界を変える瞬間なのである。市民が倫理的な消費を心がけることによって、従来より環境、社会、地域により配慮された製品が市場で競争力を持つようになり、社会を持続可能な方向に動かすことができる。


倫理消費者とは、企業の理念や環境や雇用、社会貢献などに対し真摯に取り組む企業スタイルの在り方を冷静に判断し、優良企業に対しては商品の購買だけではなく購買商品のレビューをはじめサポーターとして企業に情報やノウハウをフィードバックし、他のユーザーに対してはその情報のコマーシャル活動を展開し、積極的に企業サポートを推進していく一方、反対に情報偽装をはじめユーザー軽視の企業に対しては、選択と集中の考え方に基づき、倫理消費者がダイレクトに行動していくスタイルを身につけていくことがきわめて重要になってくる。自動車産業は家電などと並ぶ日本の世界に誇る基幹産業だ。それは決して現在世代の経営や株主だけのものではなく従業員はもちろんのこと関連企業や地域、そして何よりも企業の経営基盤を支えてきたユーザーを含めて大切に共有すべきオールジャパンの伝統財産といえる。


倫理消費者は購買力を投票権のように使うことで、今後一層、企業に対しては「日本社会にとって必要かどうか?」を念頭に企業の選択と集中を推進していかねばならない。消費者による企業に対するレファレンダム=直接投票がおおいに期待されるところである。国民や消費者はいつまでも企業にとって都合のいい存在ではなく、「いいかげん、いつまでもなめてもらっては困る」ということを示す必要があり、倫理消費者は商品の購買を投票権のように使うことで、企業の「選択」と「集中」を推進していかねばならない。マスコミメディアにとって大手企業は重要な広告クライアントでもあり、その追求にはどうしても限界があり、これからの消費者は自らの利益だけではなく、社会関係性から企業を厳しくチェックし、問題のある企業に対しては強い意思を持って堂々と「不買運動」を展開し、市場から「イジェクト」=退出させていく購買の「レファレンダム」を実行する役割を果たしていく責任があるのである。反対に企業活動における消費性向や市場動向などの一時的な判断の見誤りによる企業経営の苦境などに対しては、積極的な購買行動による企業支援が必要になります。モノづくりにおいては、ワインと同様に豊作ビンテージの年もあれば不作の年もあり、一貫した製品思想を持ち、環境主義や社会貢献に積極的な企業に関しては、個々の製品における機能や価格、デザインに一喜一憂することなく、企業に対するロイヤリティを示すことにより、長期的な視点に立った良好なパートナーシップを目指すべきであると言える。「いいモノづりができないと、いい社会ができない。いい社会ができないと、いいモノづくりができない。」と言われるように、サービスや価格の厳しい過当競争により企業の疲弊が限界にきているのであれば、消費者や市場社会に提供するモノとサービスの在り方や関係性を見直していくことにより、いいモノづくりといい社会づくりに向けて、企業と消費者の新しい恊働関係を構築していくべきではないだろうか。

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