「弱気を挫き強気を助ける。」日本のマスコミ・ジャーナリズム
「溺れている犬は棒で叩け」つまり、弱っている相手を叩きのめせという意味である。
政務活動費をめぐる詐欺などの罪で在宅起訴された元兵庫県議・野々村竜太郎氏に対し、号泣という事件の本質は全く関係のない、奇異な行動にスポットを当て、公然とバカにして笑いものにしながら、今回野々村氏と全く同じ心象による政治とカネの問題で追求を受けている東京都知事の舛添氏に対しての追求は極めて公平性に欠けると言わざるを得ない。このような日本のマスコミ・ジャーナリズムの現状は日本国民にとって何より、最大の不幸である。
野々村氏に関しては、印象として精神的な疾患によるものが大きく、事件性も単純でその弁解もふざけていたり、異常なフリをした演技などではなく、本来氏が兼ね備えている資質によるものであると推察される。
一方の舛添氏の手口は狡猾であり、その与えた影響は野々村に対して比較にならないほどの質量であるのは紛れもない事実である。
野々村氏に対しての、犯した罪の質量を度外視して無限にサンドバックにしてよい法などはなく、その奇異な行動や振る舞いをここまで茶化して娯楽化するのは本件とは別のベクトルにある「人権問題」であると断言する。
日本のマスコミやメディアは,「退屈」を最大の敵として、普段より、その中身ではなくオチとテンポで「しのいで」いる。それが最近はより増して、どんどんおかしくなってきている。政治や社会問題に対しても、話題のお笑いタレントをコメンテーターに織り交ぜ、その「物語」よりも、その場のその場の刺激で視聴率を取る、あのやり方のことである。
もともと、民主主義とは退屈なシステムである。「人を善悪で分けるなんて、馬鹿馬鹿しい。 人は、面白いか、退屈かの、どちらかなのだから」と浮かれたマスコミやジャーナリズムに、他者を批判する資格などはあるはずがないのだ。
記者会見においても、あれだけの時間と人員を投入しながら、一向に本質に迫ることもできず、誰もが解っているその事実に対しての「自供」が取れないなどは、もはやジョークとしてしか思えない。自らの仕事に対しての、情熱や使命感が圧倒的に不足していると言われてもしかたがない。
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