The region「家」 「プライバシーゼロ社会」における 私的領域と公的領域の接合点



自宅公共化ー「シェアリングコミュニティ」へのアプローチ


「私的」と「公的」合流する点、あるいは区別されない点ー絶対的安心の感情と相対的緊張の感情とを接続できる接合点ーの問題をマテリアリズムの言葉で定式化するのは極めて難しい。

個人個人がオープンにすることによって各自のもつ価値にアクセスができる。そして、そこからパブリック空間が生まれる。普段自分一人だけいるとき、家は「プライベート」な空間だが、お客がくれば、その空間は「パブリック」になる。つまり、「パブリック」と「プライベート」は対立する要素ではなく、何を「プライベート」にして何をオープンにし、「パブリック」にするかということを個人が自分自身で選んでいく自己決定性だという。自らの部屋をオープンにして、シェアリング・コミュニティとして、世界中に宿泊先を提供したり、手料理を地域の人とシェアするといったさまざまなシェアリングサービスは、「個人個人がいろんなリソースをパブリック化し、シェアすることで、地域、経済、市場の共有可能性が生まれるのである。

つまり、時間や場所による分割ではなく、多層な重なりであるといえる。

公共的な店舗などにおいてはオープンとクローズは明確に分割され、オープンの時間帯では、店内は明るく空調もきいていつでも快適で均質なサービスを受けることができる。



The regionの「家」はスリープしている。


スリープとは、省電力の待機電源モードのことである。通常の起動状態と比べると大きく電力を節約できる上に、起動中のプログラムなどを終了させることなく、素早いリブートが可能となるといった利点がある。The region「家」は、外から見るとオープンなのかクローズなのか全くわからない。それ以前に「店」なのか「家」なのかわからない不思議な空間なのである。

公的領域には他人の存在が欠かせない。他人がいるからこそ世界を確信することができる。言葉も他人に聞かれることで現実性を帯びる。公的な事柄は、こうした公的領域への現われapperanceを前提としている。その意味で公的領域は現われの空間である。

また、公的領域は「テーブル」としての世界でもある。公的領域は家族とは違う。それは人びとを結びつけると同時に、異なる存在として分離してもいる。

世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに坐っている人びとの真中に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人びとの真中にあるということを意味する。つまり、世界は、すべての介在者と同じように、人びとを結びつけると同時に人びとを分離させている。

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