日本社会は法(法典)に依存しすぎる
何よりも重要なのは法源としての習律だ。
形骸としての法(法典)ー「法の精神」とは。
『立憲主義を守る立場から、解釈改憲によって集団的自衛権を認め、安全保障関連法案を成立させようとしている安倍政権を「ナチスをまねて法を形骸化させようという政治権力は、最大限警戒しなければいけない」と批判した。』
何か解ったような、解らないような文章だ。
様々な場面において法の形骸化などの表現が使われるが、そもそも法(法典)などというものは形骸そのものなのである。現実的な意味での「立憲」思想は習慣の結果として生まれる。実践することによって覚えられる類のものだ。国家も国民も「立憲」思想を身につける第一歩は実行することだ。それは技能を身につけるのと同じことなのである。
「法の精神」という言葉は、立憲論や権力分立などを論究したモンテスキューの著書である「法の精神」と混同され、それぞれの法にまるで精神が宿るような錯覚で捉えられがちだが、現実的な文脈では法に精神が内包するという意味ではなく、法には精神が必要であるという理解が合理的である。法(法典)とはもともと形骸であり、精神や生命を別にしたものなのである。もちろん立法の生成における動機や過程には精神性が大きく影響するのは言うまでもないが、完全な法(法典)などは存在せず、また、目的の達成のために必ず法(法典)を通さなければならない必要もないのである。
法(法典)は決して万能なものではなく、その正しい運用には正しい精神が必要となってくる。形骸である法(法典)を表象するのは立法機関である議会における議員の仕事だが、政治家の仕事とはモーレス習律を呼び起こすことにある。習律とは個々人を拘束する力がもっと強く,道徳のように外からの強制力によるよりも内面的な自発性によって支えられているものをさす。
習律が法源となった法(法典)だけが、形骸から現実体としての法(法典)へ再構築され、現実社会において機能することになるのである。
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