議員の分際
民主主義とは議員の出来ることを発見する競技
出来ることをしないで、
出来ないことばかり議論する日本の議員という一族
現世代の日本の国民と議員にとって憲法改正などの大きな選択判断は無理である。多くの国民は多数決と民主主義を混同している。いたずらに多数決を尊重するのは単なる多数決主義(マジョリタリアニズム)であり、それは個人の意見を尊重しようとする民主主義とは、ひどく異なるものだ。そして民主主義の根幹、統治者と被治者の一致において最も重要なのは、国民をシュミット的な敵味方に分断させぬよう、どうにか合意形成を探ることだが、現在の議論の有り様を見ているとどちらの結果になっても禍根を残す。ここは一旦基本に立ち戻って、子供のときから民主主義について学んでいくことが必要である。まずは建設的な議論が成立する土壌形成から始めるべきである。少なく見積もっても、30年くらいの時間性が必要であり、その選択判断は次世代の民主主義の申し子たちに託すことが結局早道になるのではないだろうか。参考になるのはアメリカ民主党のバーニー・サンダースだ。選挙闘争を市民運動と位置づけて、無関心な人を教育して若者や低所得者を組織して次の投票に向かわせる。その粘り強い運動が必要なのである。サンダースの選挙闘争の後には轍(わだち)が出来る。だから、第二第三のサンダース現象が現れるのである。もちろんそれは果てしなく面倒くさくて楽しくないうえ、劇場性に欠けるが、現世代の政治家や国民の役割はそうしたパブリックソフィアな教育環境を整えることに全力を挙げるべきであり、私たちが今の最も必要とする形象は果実ではなく種のそれである。
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