日本を苦しめる「合成の誤謬」ー 「おもてなし」精神という最悪のパラドクス

「できすぎず、もてなさず」



合成の誤謬とは、正確には「ミクロの視点では合理的な行動であっても、それが合成されたマクロの世界では、必ずしも良くない結果が生じること」を指す。

経済学におけるミクロは「個人や1つの企業」・マクロは「経済全体」のこと。例えば「個人や企業の全員がそれぞれプラスになることをしているのに、結果として経済全体には悪影響を与えてしまう」事例が合成の誤謬に当たる。

つまり、市民社会における個人や企業の努力が結果として地域社会や国家を苦しめることになるというパラドクスが「合成の誤謬」である。

精神の伴わないおもてなしおもてなしは最大の無駄

日本では、スーパーで買い物をするだけなのに、店員は丁寧に両手を揃えてお辞儀をしながら「いらっしゃいませ」と挨拶。日本の接客が素晴しいの間違いないが、「どんな場所でも、“おもてなし”されて当たり前」とする日本文化は、実は世界から見たら異常なのである。 レストランに行けば温かいおしぼりが出され、お店に入れば「いらっしゃいませ」と出迎えられ、注文をすれば笑顔で微笑んでくれる。

「日本人の接客の質は、世界最高レベル」 だが、

「お・も・て・な・し」で一躍注目を集めたことをきっかけに、日本の誇るべき文化の一つとしてあらゆるメディアでも称えられるようなったこの素晴しい日本文化。 しかしその一方で、「我々日本人が“おもてなし文化”を称えれば称えるほど、我々は自分で自分たちの首を絞めている」という事実があることを、ご存知だろうか?

マルチタスクは脳に深刻なダメージを与え、

ストレス社会を生み出す主因になっている。

レジ業務などにおいても「いらっしゃいませ。ありがとうございました。また、お越しくださいませ。」などの一連の対応は限られた時間の中ではかなりの無理があり、本来の業務とのマルチタスクは、働く側のメンタルなストレスを拡大している。マルチタスクとは 複数(二つ以上) の事柄を同時処理(進行) すること。 人間は同時に処理しているようで、実際の脳では活動場所を瞬時に切り替えて いるのである。精神を疲弊させる脳の浪費に等しく、放置すると早期の認知機能低下につながりかねない。また、マルチタスクが長年の習慣になっている人は、脳の記憶を司る部分にダメージを与える可能性があるストレスホルモンのコルチゾールの値が高くなることがわかっている。 そのストレスは決して小さいとは言えないのだ。

また、体を使う『肉体労働』、頭を働かせる『頭脳労働』、それに続く第3の労働形態として“感情”を商品として提供するのが、『感情労働』である。

「本来の感情を押し殺して業務を遂行することが求められる“感情労働”」の代表例としては、接客業が従来挙げられてきたが、近年は日本社会全体の仕事の多くが“感情労働的”になっている。「会社から管理・指導され、自分の感情を“加工”することによって相手の感情に働きかける職務」 。あらゆる職種がそんな“感情労働的”になっている社会の中で、追い打ちをかけるように、我々日本人が社会のあらゆる場面で「おもてなし精神」を期待したらどうなるか? 現在世界においてもトップクラスを誇る“日本の自殺率”がさらに上昇することは間違いない。

「おもてなし大国」の代償

日本の"OMOTENASHI"ということで、クールジャパンとともに海外に売り込もういう戦略があるみたいだが、確かにそのホスピタリティマインド自体はたいへん尊く、事実、日本においては古くから様々な業種業態において日常的におもてなしの精神が実践されてきた。現在においても、老舗の店舗での匠の接客の技能は、日本の伝統財産と言っても過言ではなくたいへん素晴らしいものである。しかしながら、その奥にある精神を踏まえずに一般コモディティーのサービス業に対し、広範囲にマニュアル化した過度なおもてなしのサービス基準を導入することによって、働く側のメンタルなストレスが顕著化し、その捌け口を他者に拡散することにより社会のモラル崩壊が一層加速するのである。また、そうした過剰サービスが高齢者や障がい者の雇用を閉め出し、さらに、若者ですらこのような不況下の求人状況でもサービス業に人が集まらないという、雇用のミスマッチも生み出している。確かに一見細やかな心配りというのは素晴らしいが 、その反面細部への行き過ぎたこだわりが過剰にモノの命を無駄にしている場合も多い。

「お客様は神様」 という滑稽

接客業に一度でも関わったことがある人なら必ず教わるこの“精神”は、世界から見たら“異常”の一言。

「良質なサービスにはお金を支払う」という文化が定着している欧米では、レストランなどでサービスを受ける際はチップを支払うのが常識である。しかし、日本では「お客さんは神様のようにもてなされて当然」という前提がサービスを受ける側に存在してしまっているので、少しでも失礼な態度をとられようものなら、簡単にクレームが発生してしまう。

理不尽ともいえるような要求をする 「モンスターカスタマー」を生み出す背景に、行き過ぎた「おもてなし」 が存在する。

日本のおもてなしは、いい意味でサービスの「プロフェッショナルイズム」とも言えるが、「客」という概念が未成熟な「見た目主義」のサービス社会であるとも言える。現代日本社会における「客」は、店や企業の「不完全」に対して実に不寛容である。

日本の接客が素晴しいの間違いないが、「どんな場所でも、“おもてなし”されて当たり前」とする日本文化は、実は世界から見たら異常なのだ。

「お客は神様のようにもてなされて当然」という前提がサービスを受ける側に存在してしまっているので、少しでも失礼な態度をとられようものなら、簡単にクレームが発生してしまうのである。

そんな状況が今、サービス業だけではなく、日本のあらゆる職種に拡大し社会問題となっているのだ。

我々日本人が“おもてなし文化”を称えれば称えるほど、我々は自分で自分たちの首を絞めている。生きるには“最高”、働くには“最低”な国である。

日本の美しく控えめな心遣いが溢れるこの精神は、“日本の誇るべき文化”であることは間違いない事実である。 しかし、そんな「繊細は気遣いが要求される“おもてなし”」を日本の誇るべき文化として世界にアピールし続けるためには、我々日本人自らが“代償”を支払わなければならないのは間違い。 5年後に控えたオリンピックに向けて、一層の加速が予想される「おもてなしブーム」。 あらゆる職種の人々に更なるストレスを与えてでも、最高のサービスを提供する「おもてなし大国」に立脚し続けるのか?それとも、「おもてなし」に代わる新たな日本の独自文化を見つけるのか?

「おもてなし大国、ニッポン」をアピールする前に、一度その“代償”を考えてみるべきなのである。

社会の主体は「生産」であり、「消費」ではない。そして、社会の紐帯は「生産」を通じて生まれることを忘れてはならない。

食事はうまからずともほめて食うべし。

元来、客の身なれば好き嫌いは申されまじ。

日本のスーパーチェーンでは、バックヤードに下がる時、すべての従業員は「フロア」に対して一礼をする。

それは、本来客も同じでなければならない。入店する時に、「フロア」に対して深く一礼をすることが、一見突飛なようだが今最も重要なことなのである。お金を払うからお客様は神様などというそんな卑しい話ではない。客が変われば全てのことが変わる。地域も社会も国家も「一座建立」という意味では「フロア」と同様なのである。

蒲生三丁目のリージョン・ルネッサンスは、共同体における習律を日常生活の市場活動を通した人間教育に求め、

原点から再構築しようという主旨である。

蒲生三丁目では

(1)お客(観客)は、地域や家の出入りには感謝の意味を込めて「礼」を行う。

(2)お客(観客)は、近隣の住民や年長者に対して「礼」をし、敬意を表す。

(3)お客(観客)は、「Justice Concept」に反する行為については厳しく対応する。(お客の反則負け)

の三つの取り組みを始めた。

この新しいフェスティバルでは、HECPという理念の共有により、お客(観客)と「演者」の境界をとりのぞき、町が自己表現をするのを手助けする。そして、お客(観客)も作品を作り上げる重要な役割を担う一座建立のインスタレーションアートなのである。

お客(観客)と演出者の境界をとりのぞき、町が自己表現をするのを手助けするという、芸術フェスティバルの新しい側面を紹介、お客(観客)が受身で見るだけでなく、役者として― 主役や脇役として参加することを求めるからオープンなのである。

日本的経営を進化させるための機軸は、日本人の心の奥底にある独特の労働観を読み解くことが重要である。働くことを「苦役」と考える欧米的な考え方とは大きく違う。欧米社会モデルにおいては不自由な労働から開放された彼岸に、芸術が存在すると考えられがちである。つまり、労働の目的として、芸術が考えられる。

日本人の労働観の根底には、「世のため、人のため」「世の中のお役に立ちたい」という心象が存在。早く引退して悠々自適にやりたいという人は意外に少ない。日本人は働くということを、「生活のための手段」という感覚だけではなく、違う次元からも見つめてきた。芸術の目的こそ、労働であり、クラフトマンシップという概念が成り立つのは、このような「労働の喜び」がアーツアンドクラフツの先に見ることができるからであるとする。

「リージョンルネッサンス」運動は、JUDOとHECPの合同プロジェクトとして立ち上げられたものである。その理由は、現在の市場社会が競争原理主義に片寄り過ぎ、消費者のマナーが顰蹙を買っている状況が多く見られる。

日本には職人魂とか商人魂というのが昔からあり、近江商人の心得「売り手よし、買い手よし、世間よし、三方よし」優れたプロフェッショナリズムがあった。これは「行き過ぎた便利さ」と「行き過ぎた快適さ」からの脱却による「労働」の復権であるであるとも言える。

そもそも、大の大人が子供に対して「いらっしゃいませ。ありがとうございました。またお越しくださいませ。」などというのはかなり違和感を感じる。どう考えても不自然である。声をかけるのであれば「車に気をつけて帰るんだよ。」などの方が気持ちが伝わりやすいのではないか。また、帰り際に手を振ってあげれば、言葉自体特に必要はない場合もある。我々日本人が“おもてなし文化”を称えれば称えるほど、我々は自分で自分たちの首を絞めているのである。

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