インダストリー2.5が目指す世界とは?
リ・コンシャスな〝アーツアンドクラフツによるパラダイムシフト
第2.5次産業革命に 必要な構造改革の中で中心となるのが、労働市場改革である。産業は「人・カネ・モノ・技術」で成り立っているから、公共性の高い産業に高齢者が流れる仕組みを作らなければならない。
世界をドラスティックに変えるための
ポイントはたった2つである。
1.「高齢者」は一体何を「生産」するのか。
社会の紐帯は「生産」を通じて生まれる。
高齢者も障がい者も女性も子供も、全て人は、「生産」に携わり、他人の役に立ち、人類の一部としての自覚を持つことで人生に光を見出すのである。すなわち「生産」とは、人が価値ある人生を送るために必須の手段であり、またそれ自体「目的」でもあるものなのである。消費は人を孤独に陥れる。また、一般的には社会の主体は「生産」であり、「消費」ではなく、社会の紐帯は「生産」を通じて生まれると言われている。人間は生産を通じてしか付き合えない。やらねばならぬ仕事が無数にある。だからこそ、その数だけ人々の労働が必要とされ、高齢者にも、誰にでも居場所が空けられている、究極のワークシェアリング社会が営まわれているという考え方だ。
インダストリー2.5が目指す世界とは?
アップルサイクル革命
「Industrie 2.5」という言葉は今、間違いなく世界経済における重要なキーワードだろう。2.5とは産業革命における電気とインターネットの間を指す。政府や研究機関、産業界、銀行などのエスタブリッシュメントの機関は通さない、このマルチチュードによる第2.5次産業革命と銘打った日本の国家戦略は、果たして壮大な夢物語なのか、それとも時代の必然か。「インダストリー2.5」は、モノづくりの現場を変えるだけでなく、HECPー人権・環境・コミュニティ・公共などの社会問題の解決にも繋がるという。国際競争力の強化と、世界を牽引するリーダーとしての日本のプレゼンスに向けて動き出した日本の本気が、じわりじわりと世界を巻き込もうとしている。企業や業界だけでなく、一般消費者の生活にも大きな影響を与える動きとして注目しよう。
第2・5次産業革命とは?テクノロジーの限界と進歩のパラドックス
第一次第二次第三次と続く、産業革命後の科学技術の急速な進歩は、際限のない生産と利益追求、抑制のない消費の結果としての廃棄物の山は「芸術」では決してない。ITや科学技術の急速な進歩は、人間の衣食住や医療などの良好な生活や環境や安心を、ひとまずは生み出したかにみえている。しかし、デメリットとしてさまざまな環境汚染や資源の有限性への心配がある。経済活動における「大きな工場」でのモノの生産が人間に幸福をあたえる万能のものとは云えなくなった。また、省資源や環境汚染防止のための技術的研究が続けられている。このことは、確かに再び科学技術による解決を目指すという循環の中にある。しかしながら、さまざまな法律や規制により、現状からの方向転換を図ろうとしているが、科学技術や法による転換の方法は、更なるパラドックスを生み、個人の行動についてみるとき、人間本来のあるべき姿を再認識させていく力はここでもまた万能ではない。
「小さな仕事場」でのモノ作りは手工業であるため効率的ではなく、金銭的利益も少ないものである。しかし、現代文明社会への疑問を抱くときに、もうひとつの価値観、もうひとつの生活様式を認め合っていく社会、そのなかでなりたつ経済生活はどのようなものであるかについて、考えつつ実践していこうとする人びとへの「教育効果」は、人間の本性にたちかえって考えるものである。人間自身の五感の再開発を促し、体験を通して自然への畏敬や人間どうしの尊重や信頼を深めていこうとする態度が日常的に存在することが、たとえITやハイテクの時代にあって、分業の発達している時代においても、どうしても必要である。このようなことが次世代への贈り物であると思われる。
「電気」と「インターネット」の間
オルタナティブな産業革命ーリ・コンシャスなアーツアンドクラフツ
人口知能、ロボットテクノロジーや自動運転などについても、マニュアル操作による機械と人間の役割の距離感の原点回帰のアプローチの方が安全に対して合理的で実現可能性は高い。テクノロジーとは、本来目的ではなく目標であるはずが、いつの間にか目的化してしまっている。テクノロジーが求める生活の便利さや快適さに対するオルタナティブな価値観が必要になってくる。物事には一元ではなく多層なアプローチが必要である。つまり、生活の簡素さと技術の簡素さという時代に流されない普遍的な命題を忘れてはならないのである。
現在、人類は、テクノロジーの大躍進のさなかにありながら、史上初めて、従来の意味での発展を続けることが多くの人に苦しみをもたらすことに気づいたのだ。それでも、私たちは、無理やり前進を続けている。ではそのような破滅的な結末を避けるために、何をすべきなのか?何よりも、自分たちを消費へ駆り立てる勢力の、偏狭的なものの見方を拒絶しなくてはならない。
2.「高齢者」は一体何を「消費」するのか。
「倫理消費者」ーその中心になるのは圧倒的な購買力を持つ高齢者だ。
企業グー・政府チョキ・国民パーのジャンケンの三値論理で見れば企業に勝てるのは消費者(ショッパー)である国民しかない。 企業に対して社会・公共・倫理という文脈での「買わない選択」という、消費行動の「スペンドシフト」を認識させるためにレファレンダム=直接投票を展開していくのである。
この消費レファレンダムは、身をもって事の重大性を認識し、問題企業はもちろんのこと、他の企業や社会に対しても警鐘を鳴らす為にも、悪質企業にはその責任に応じた社会的制裁を受け、行政だのみではなく、国民が直接目指すべき社会を再構築しなければならない局面にきている。
倫理消費者よる〝レファレンダム〟は、決してスローガンでは終わらない、最後までやりとげる運動だ。10年20年、場合によっては30年以上かかっても、世代を超えて未来の高齢者たちのために、現在の高齢者が必ず完結させるという覚悟と問題意識の深さが問われているのである。
かつて「高齢者」が尊敬されていた時代においては、「高齢者」は無条件に敬われる存在というよりも、「智慧ある者」として、共同体・家族のために大きな貢献をする存在であったからである。
〝リソーシズ〟と呼ばれる高齢者には社会人期の現役世代にはない、経験・知識・技能から培った「長年のあれ」という解析化できない独特のパワーを備え持っている。あれとは物事を行う上で、抑えておくべき大事な点のこと。この場合、コツ ・ 極意 ・ ポイント ・ 要領 ・ 秘訣 ・ 勘どころなどの物事の大事な部分の概念ことであり、言葉化できない場合における代名詞の芸術表現である。〝リソーシズ〟は平和を希求する〝世界理念〟実現のための小さな「碁石」であり、それは決して、「駄目」などではなく、状況を劇的に変化させる「捨て石」である。囲碁の駒は、突然現れる。突発的な権力行使によって、状況を劇的に変化させることが出来るのだ。〝リソーシズ〟には、何ものにも囚われないリベラル(自由)がある。〝リソーシズ〟が他から期待されるところは、善意の、誠心誠意の、私利私欲を離れての、かつ「深謀遠慮」としてのわがままであり、そして、何ものも恐れることのないラジカル(決死)がある。これこそが〝リソーシズ〟の本領なのである
問題解決に向けての構成的プロセスは極めてシンプルである。無名の〝リソーシズ〟が現代人の失われた精神性を回復し、人間の生き方を見つめ直し世界を変革する主役になる。〝イノベーション〟により国民のパラダイムシフトを呼び起こし、状況を劇的に変化させるのである。
市民社会と国家戦略はコインの表裏であり、国家がいくら戦略的でも市民社会が傾けば国は傾く。多様で寛容な市民社会の形成のためには市民社会における「創造長老」の存在が不可欠である。かつて高齢者が尊敬されていた時代においては、高齢者は「智慧ある者=リソーシズ」として、共同体・家族のために大きな貢献をする存在であった。
〝リソーシズ〟は「芸術」をスタティックな、シンボル的な、モニュメンタルな造形物として捉えるのをやめ、人間の動的なアクションのなかで考え、「人には、劇的に考え方や感性が変わる個の逆転の瞬間がある。」
それまでの常識が一気に覆り、新しく目が覚めたような気分になる。このような体験を、パラダイム・シフトと呼ぶ。単なるきっかけがあったり動機を備えていたりするだけでは、人はそう変われないものである。パラダイム・シフトはもっと強力で不可逆的である。
それがパラダイム・シフト、。The regionにおけるリソーシズの使命は、世界中で群発的に圧倒的なパラダイムシフトを呼び起こすことにある。
0コメント