知識の世界の三権分立と三値論理。 統治行為論からくる司法権の限界と代議制の限界

「そもそも、パーはグーには勝てない」


中学あたりの社会科で司法、立法、行政の三権分立をジャンケンポンにたとえる教師がいます。憲法は、国の統治に関わる権力を、立法権(国会)・行政権(内閣)・司法権(裁判所)に分け、それぞれの機関に他の機関を相互に抑制する機能を持たせました。これを三権分立といいます。その仕組みは、じゃんけんのグー・チョキ・パーなどの三すくみの関係に近いものと言えるかもしれません。また、それは、議員グー、政府チョキ、国民パーに例える場合もあります。しかし、そもそも、パーはグーには勝てない。グーは石でチョキのハサミより強く、ハサミはパーの紙より強いが、紙は石を包むことができるだけで強いとは別問題なのです。つまり、パーはグーにも、チョキにも勝てないのです。

「司法もパー、国民もパー」

「司法もパー」

統治行為とは国家統治の基本に関する高度な政治性のある行為であり、たとえ法律上の判断が可能な場合でも司法の権限が及ばないとされている行為のことをいいます。

これは高度な政治上の判断を伴う行為に対しては、国民の審判を受け、その行為について政治的な責任を負う立場である政府及び国会を尊重すべきであり、非民主的で国民に対して政治的な責任を負わない裁判所は関与すべきでないとする考えによります。

憲法第81条の規定において最高裁判所は一切の法律や命令、処分などに対して、憲法に照らし合わせて違法かどうか判断する権限を有するとされていることや、法治主義に反するといった考えから反論もありますが、過去の判例はこれらの主張を排除し、日米安保条約の制定など高度な政治上の判断を伴った行為に関する訴訟について違法性の判断を避けています。

「国民もパー」

憲法第43条は、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と定め ている。つまり、国会議員は、衆議院議員も参議院議員も、自分を選んだ人たちだけの 代表ではなく「全国民の代表」だ、ということです。

代表とは全体の状態や性質、 機関やグループに代わって、その考え・意見を外部に表すもの。全体の状態や性質をそれ一つだけで表す行為やそのものを指します。

我が国が民主主義国家であるからには国家の行為に対しては、明らかな人権侵害など特段の事情が無い限り、裁判所がその違法性を積極的に判断するのではなく、主権者である国民自らが選挙を通して政治的な判断をするべきだとしているのです。

しかし、議員や議会は国民一人一人の期待にも、国民の多様な政治的意見が国会議員の数にも相似形に反映されているとは言えません。パーはグーを包んでいるだけで決してグーより強いとは言えないのです。

0コメント

  • 1000 / 1000