憲法理念とされる「平和の希求」とは一体どう意味なのか?
個人は社会の最小単位であり、フラクタルでスペクトラムである。つまり、最小立体であり、基礎立体である。
国家主権と国民主権はコインの表裏であり、市民社会と国家戦略はコインの表裏である。国家がいくら戦略的でも市民社会が傾けば国は傾く。
まずは、何より基礎立体における理念がなければ国のカタチも憲法なども形象することは出来ない。
一般的には立憲主義(Constitutionalism)とは、政府の統治を憲法に基づき行う原理で、政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれていることに依拠するという考え方ではあるが、いきすぎた個人主義により個人が苦しめられるというパラドクスに陥ってしまう。
公共の福祉と基本的人権は決して対立概念ではなく
同じベクトルに存在する。公共の軽視はそのまま人権の軽視と同義なのである。
日本人はrights権利とduty義務と分けて考えるが
概念立体としては 、共に「として」と理解すべきである。つまりrigutsもdutyも人権というのは人としてどうあるべきかという普遍的な美意識の問題として考える必要がある。個人についても共有させるべき現実的理念でなければならない。
〝この憲法が國民に保障する自由及び權利は、國民の不斷の努力によつて、これを保持しなければならない。〟
すべての人が人格的存在として尊敬され、単に手段ではなく、目的とされる社会を「目的の国」と呼ぶ。「目的の国」は、自由で自律的な人格の共同体であり、それは公共体とコインの表裏としての市民社会のあるべき姿である。市民社会は国家と同義であり、「目的の国」は、国家の目標であり、個々人が理性の道徳的な命令に服し、自己の確立が普遍的な道徳法則と一致するように行為する理想社会である。
国というものを
一から考えようじゃないか。
「これからの日本の話をしよう」
憲法(けんぽう)とは、国家の組織や権限、統治の根本規範(法)となる基本原理・原則を定めた法規範をいう(法的意味の憲法)。 また、法規範では
自分たちの国を理解するのに高度な知識も高文脈も全く必要としない、誰でもが理解で きる、そして実行できる、それが「憲法」なのである。政治において学術理論や理想論が先行して現実を無視した政策を行わない、国民一人一人が、具体的な「憲法」を囲んでいくことが何よりも重要だと言えるのだ。
「豆知識」派の限界
多くの憲法学者や政治家の主張は事実や原体験ではなく、全てが習った「順番」での耳学問の積み重ねによるもので思想核も存在しない。習った順番でたまたま「護憲」であったり、「改憲」であったりする。
知識の世界に生きている人の思考回路は曲線や模様で施された柱などを作るのに夢中になって、平面を忘れている建築家のようなものだ。
世界を見渡してもマルチチュード=正、エスタブリッシュメント=悪という単純な構図で動いているわけではなく、マルチュードもエスタブリッシュメントも敵対反発しながら大局において共犯関係を再構築しながら反動を加速させている。
私たちが予想する以上に、世界は大きな変動に向かって動き出している。私たちは、歴史的な時間を加速していかなければならないのだ。両義的世界観のオルタナティブな構成的プロセスへと移行し、未来からの観点から、先回りして来るべきものを把握し、具体的な「憲法」を囲んでいくことが何よりも重要なのである。
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