最大の憲法違反を犯してきたのは日本国民自身である。
スタイルのない頭でっかちの政治家、学者、知識権威とは没交渉だ。
第十二条
〝この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。〟
いわゆる人権保持の義務を定めている。具体的な法的義務を国民に課したものではないが、人権の歴史的意義と保持のための国民の責務を述べた精神的指針である。
日本国民は日本国憲法というのは思想核を持ったすばらしい「種」であることを忘れてしまっている。すばらしい憲法典を手に入れたからといって人間の意識が急激に変わることは難しい。憲法問題の最大の矛盾は、戦後、「紙幣」と「娯楽」という心性を「平和」と「民主主義」などの言葉に置き換え、次世代に伝承できる「憲法=思想」を育て上げてこなかったことに尽きるのである。
「憲法」は書物で学び、必要に応じて使うことができない、そういうやり方では「憲法」は身につかない。現実的な意味での「憲法」は習慣の結果として生まれる。実践することによって覚えられる類のものなのである。国家も国民も「憲法」を身につける第一歩は実行することだ。それは技能を身につけるのと同じことなのだ。データやエビデンスよりも肉体感覚やプリミティブな感情を基準に物事を判断することが最も重要なのである。つまり、習律だ。日常の一つ一つの問題の背景に潜む、「憲法」の思想核と向き合うことでしか、私たちはほんとうの「憲法」を手にすることは出来ないのである。
ここにきて新しいパブリックの考え方が生まれつつある。新しいパブリックは「個人が作る公共の領域」として再定義される。組織の権威は個人のパブリックの領域には及ばず、個人は自立した存在になる。公共の福祉と基本的人権は決して対立概念ではなく同じベクトルに存在する。公共の軽視はそのまま人権の軽視と同義なのである。日本人はrights権利とduty義務と分けて考えるがこれはコインの表裏であり、概念立体としては 、共に「人として」と理解すべきである。つまりrigutsもdutyも人権というのは人としてどうあるべきかという普遍的な美意識の問題として考える必要がある。
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