家事はアートだ。ー「最も革新的な芸術教育は家事である。」

家事は「小芸術」である料理・インテリア・雑貨・家電に囲まれている。



日本の知識層に国家と都市、そして、家と家事を再融合し、そのインテグリティによる立体的テーゼ導き出すことが出来るか。


なぜ、日本の男は世界一家事をやらないのか

ーやる気はあるが、スキル不足。


先進国における夫の家事・育児分担率は3~4割が当たり前。子どもがいる共働き夫婦の夫の家事・家族ケアの分担率は、スウェーデンが42.7%、フランスが38.6%、アメリカが37.1%、イギリスが34.8%で、日本は18・3%で最下位だ。

ちなみに夫の分担率が低いのが、全国最下位の大阪(6.7%)だ。これは言い換えれば、たとえ共働き家庭であっても、女性が家事・育児の93.3%をしているということである。

大阪だけでなく、近畿圏はどこも女性が家事・育児の9割を担っている。ちなみに近畿地方は児童虐待の発生率が高い傾向にある。家事・育児をしない夫への不満を募らせた妻が、そのいらだちを子どもや社会に向けている、というような相関性が決してないともいえない。

一方で日本の男性の家事スキルの低さは問題である。本当は男性も家事をしたくないわけではない。ただ今まであまりやったことがないので、料理をさせても掃除をさせても下手。結局女性がやり直すはめになるから、手を出させてもらえない。それで夫はますます家事スキルを身につける機会がなくなるというわけである。本当は男性もやる気はあって、今の若者は男性も家庭科を必修科目で学んだ世代で、ジェンダーフリー教育の成果の現れ、20代の男性の6割が、「男性も家事・育児を行って当然である」と考えているのである。あとは長時間労働の解消など労働環境が改善されること、そして男性が家事スキルを身につけること。それが実現すれば、男女の家事・育児分担率は欧米に近づいてくる。

というのが、専門家や知識層の一般的な分析である。


「最も革新的な芸術教育は家事である。」ー

家事はアートだ。


確かにそうした側面は決して間違いではないが、最も重要なことは、家事という労働が決して苦痛なものではなく、最も革新的な芸術的表象ーシンギュラリティであるということを教える教育体制が整備されていないからである。

つまり、家事はアートであり楽しい。そして人の役に立つ。

デザイン大国であるイタリアには大きなデザイン学校はない。イタリアの近年のデザインは、暮らしの中から生まれてきているといえ、イタリア人の家は、人を家に招いたり、招かれたりするサロンになっている。人と人との交流場所である。おしゃれなインテリアや美味しい料理、テーブルウエアに触れ合いことにより、素敵なものを家に置きたい、人生の素敵な舞台を作りたい、という気持ちが生まれて、それがデザインの土壌になっているのである。残念ながら日本では、モノを作っても『アートな良質ものを買って暮らそう』というマーケットが育たなかった。日本ではなぜデザインやアートが育たないかというと、結局『マーケットがない』という単純な理由である。結局、日本のデザインやアートを復興させるには、私たちが持続可能な、簡素でアートな暮らしを始めなければならないのである。


ランドリーやマンフォードの都市論の上っ面を

なぞってみても答えは出てこない。


ルイス・マンフォードは『都市の文化』において「文化的貯蔵、伝播と交流、創造的付加の機能――これこそ都市のもっとも本質的な機能 」とし、都市を「文化的個体化の単位としての地域」と定義し、メガロポリスを支配する金融機関、官僚機構、そしてマスメディアの三位一体構造を痛烈に批判して「生命と環境」を何よりも重視する「生命経済学」を提唱し、「人間の消費活動と創造活動を充実させる都市の再建」を主張した。その思想的系譜の背景にはラスキンやモリスの存在がある。芸術作品に限らず、「財」の価値は本来、機能性と芸術性を兼ね備え、消費者の生命を維持するとともに人間性を高める力を持っている。

本来の固有価値は、これを評価することのできる消費者の享受能力に出会ったときにはじめて有効価値となると主張した。ラスキンの後継者を自認するモリスは、機械制大工業による大量生産=大量消費が労働疎外と生活の非人間化を促進すると批判し、ラスキンの提唱した職人の創造活動に基づく工芸(クラフト)的生産の再生により、「労働の人間化」と「生活の芸術化」をはかる美術工芸運動アーツアンドクラフツを指導し、その影響は食器、家具、インテリア、住宅等のデザインを通じて世界中に広がった。

「モリスの提唱する『民衆芸術』は芸術を国家や都市計画のような「大芸術」と家という空間の中で展開される「小芸術」に二分しつつも、二者を分離できない「芸術全体」という枠組において把握していることが示される。分離した両者を「芸術全体」へと再融合すべく、日常生活の「小芸術」に足掛かりを求めるのである。「小芸術」とは具体的には「家造り」「家具木工」「小物雑貨」などの工芸であるとされ、日常生活において一般の民衆によって使用されるものの政策を意味する。民衆が「小芸術」の在り方を問い直し、「芸術」の理解が高まることで、「大芸術」も「民衆の芸術の威厳」を回復するという理念を打ち立てた。しかし、残念ながらモリスをはじめとするアーツ・アンド・クラフツのメンバーによる優れた美術工芸品の数々は一つ一つ手仕事で作られていたため希少でしかも高価であった。


世界の教育家やアーチストたちが目を見張る。「家事は最も革新的な芸術教育」として紹介されたのである。


芸術的家事は子どもたちの高度な表現力と独創的な思考力を育てる。これからの「芸術」は、学校ではなく、暮らしの中から生まれてくる。「学校芸術」はもはや世界に通用しないのである。芸術としての家は人を招いたり、招かれたりするサロンになっている。人と人との交流場所だ。そこから素敵なものを家に置きたい、人生の素敵な舞台を作りたい、という気持ちが生まれて、それが芸術の土壌になっているのである。子どもの思考・表現が、一つの世界観にまで高められていくのである。芸術的家事の教育は、子どもと大人の双方が創造性を発揮し、美的で探求的な活動をとおして共に学び、育ちあう関わりを形成することにある。しかしそれは狭義の芸術教育ではない。ましてや大人の知識・技能を子どもに教え込むことでもない。


料理、園芸、手芸、室内装飾など生活全般(ライフスタイル)に渡り、アメリカを中心に幅広く活躍しているライフコーディネーター・クリエーター「マーサ・スチュワート」が手がけるクラフト・ライン。


ペーパー・クラフトやアルバム作り、ギフトラッピングに欠かせないツールや装飾物、季節の行事に合わせ、生活空間を彩る使いやすく、美しい商品を次々と発表している。

インテリアの形象にプロも素人もない、すべてがアールブリュットなアッサンブラージュである。ハンドメイドのチェアやテーブルなどの作品性のあるものを置いたり、アート感のあるものによって、美術館のような丁寧な雰囲気の部屋を作り上げることができる。決してお金をかけたものではなく、斬新なセンスとアイデアが特徴なのだ。

料理の形象も同様だ。自己学習で専門的には勉強していない、つまり素人料理だ。どこの家庭にもあるキッチン家電を使って作るアットホームな料理。エスニック料理やイタリア料理などというカテゴリーからもはみでている。なんでもありのメニューバリエーションである。発想の自由により、好奇心を総動員して情報・知識・材料をごちゃ混ぜにして創る。また、自然環境を中心に身の回りのあるいろいろなものを大切にする思想。粗末にするなという考え方。材料を揃えようと思うよりも、手元にあるものをや残ったものをどう利用するか、どう再生するかを考える。「もったいない」という精神。レシピどうりに創るのではなく、これがなければアレで代用しちゃえとか、コレのかわりにソレをいれるとどうなるかとか・・・。料理というより、アート発想。 過度な技巧に走らず、多少不細工でも美味しくて、ボリューム満点。でも、どことはなく、おしゃれでアーティステック。「階調」を意識したマスプロダクツよりも「乱調」の楽しさ・面白さを目指していくのである。本来、料理とは自由で楽しいものなのである。

柳宗悦の民藝運動ー知識の世界の芸術の限界と「習律」としての芸術

モリスのアーツアンドクラフツのパラドクスは、皮肉にも時を超えて日本の芸術運動においても繰り返された。「日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出し、活用する日本独自の運動である柳宗悦の民藝運動は、個別の作品だけでなく「無名の芸術性」という新しい美的価値観を普及させた。しかし、一方で、それまで無名だった物に 「無名芸術品」というタグを付ける行為となった。 結果として、それまで何にも属さない本当に自由だったものを 「民藝」というブランドに取り込んでしまったのだ。それは結局、柳が否定した利休後の茶の湯の 「権威による名物作り」と同じではないだろうか。柳やその周りの人物がその芸術性を本当に理解していたとしても、理解(美的価値観)を他人に伝える事は困難な事であり、民藝というタグ(権威)で保証された芸術価値に変容してしまうのだ。」


IKEAとALFREX。ー

豪邸であれ、バラックであれ、あらゆる所に簡素な芸術性が必要である。


「生活の簡素さ」re-consciousーそれは趣味の簡素さ、すなわち甘美で高尚なものへの愛を生むものであり、私たちが切望する新しくよりよい芸術の誕生のためにもっとも必要な事柄である。豪邸であれ、バラックであれ、あらゆる所に簡素が必要である。

〝ロウアー〟〝ミドルロウアー〟のHOME STYLEホームスタイルにおいて、「生活の簡素さ」re-consciousという「小芸術」アーツアンドクラフツの在り方を問い直すことができれば、産業としてはこれまで手つかずできた分野であり、伸びしろも大きい。

しかし現実には、多くの〝ロウアー〟〝ミドルロウアー〟が望むのは欲望を抑えた簡素な生活ではなく、普通の金持ちがするような裕福な暮らしである。ウイリアム・モリスのアーツアンドクラフツや民藝運動の思想の最大の欠点は、一般庶民のこの心性を全く把握できなかったことにある。

日本の知識層に国家と都市、そして、家と家事を再融合し、そのインテグリティによる立体テーゼ導き出すことが出来るか。

20世紀後半から隆盛し始めた、新自由主義の申し子〝アッパーマス〟と呼ばれる〝富裕層〟は住宅建築の施主となり、都市郊外に居を構え、邸宅内には種々の装飾芸術品が飾られた。家事は「小芸術」である料理・インテリア・雑貨・家電に囲まれている。「生活の簡素さ」という〝芸術〟は、〝富裕層〟の求める「贅沢luxury」「俗悪さvulgarity」を「簡素さsimplicity」「正直さhonesty」によって改良しようとする試みである。「最も革新的な芸術教育は家事である。」

家事はアートだ。世界中の〝ロウアー〟〝ミドルロウアー〟が「小芸術」の在り方を問い直し、「芸術」の理解が高まることで、「大芸術」も「民衆の芸術の威厳」を回復する〝アーツアンドクラフツ 〟の一大運動なのである。


家と地区の再構築ー

無名でたったひとつの〝家〟、その時代の象徴としての「存在感」を持つことが出来るのか。


ノーベル賞受賞者 で,インド生まれの経済学者であるアマルティア・セン AmartyaSenの提唱する「ケイパビリティ」capability という概念がそのベースにある。つまり,今後の富や貧 困の指標は従来のように 1人あたりの GDPを用いるの ではなく,それぞれの国や地域の人々がどれだけ多くの「選択肢」をもっているか,人生のさまざまな局面にお いて「意義ある選択」が可能な社会となっているかとい うレベルで見ていくべきだというものであり,一人ひと りにとってのケイパビリティ,つまり発達可能性や潜在 能力などに多様な選択肢の拓かれている社会ほど豊かで あるという考え方である。それは当然,女性の社会参加 やマイノリティの発言権などさまざまな権利と結びつく が,そのような人間の基本的権利,人権というものを発 達可能性の視点から捉えたとき,そのベースには豊かな 文化を創造し,享受する権利,つまり「文化権」が重要 であるという認識に基づいているのである。

ルイ ス・マンフォードは「地区」を家庭的・経済的活動共通の枠組み(=インフラストラクチャー)と文化的活動 劇場との統一した「箱」として、つまり機能性と芸術 性の二重性から定義し,その「箱」の中で演じられる 機能をこれこそ都市のもっとも本質的な機能であろう」 とし、端的には地区を「芸術的個体化の単位としての地域」と定義している。 

 マンフォードは、「個人」と「国家」の二者択一に代 わって、「地域」的連帯の必要を主張している。マンフォー ドが提案する「地域」という枠組は、ローカルな経済的利 害を基礎とし、階層的な連携を含意している。この「地域」 的枠組が必要とされるのは、真の平和を実現するためであ る。彼は、自らが提示する「地域」的枠組の原型を第一次世界大戦前に存在していた共同体に求めているのである。

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