「権」とは、本来振り回してはいけないものを、振り回してしまうことに対する戒めなのである。
rightsの概念は、「権利」:「権」=権高、おごり高ぶるさま、他を支配する力。
利=都合がよい、もうけると言うようなものではなく、
本来振り回してはいけないものを振り回してしまうことに対する戒めなのである。
福沢諭吉は「『Right』は『通理』か『通義』と訳すべきで、『権利』と訳したならば、必ず未来に禍根を残す」と、厳しく指摘している。
ホッブスの自然権は、人間の本性には競争、不信、自尊心の情念があり、これらは不可避的に敵対関係を創出する。したがって人間はこの敵対者に対して先制攻撃を加えることで殺害または服従させるかを選択することになる。これは人間の自己保存が最重要の価値と見なされる自然権であり、この自然権を追求することは自由でなければならない。
しかし、自由に自然権を行使すれば人々は常に攻撃される危険に晒されることになり、結果的に自然状態は万人の万人に対する戦争に発展する。このような状態では人間は永続的に恐怖と危険に備え続けなければならず、取引によって経済を発展させることは不可能であり、人間の生活は孤独かつ残忍なものとなる。
「権」には自然状態での諸問題を解決するためには自然権の行使を抑制し、また共通権力によって相互の約束を監視することが必要であるという概念が存在する。
制限原理としての公共の福祉
権利とは何らかの根拠があって主張しうるもの果たすべき義務を果たしていて、これだけのことをしたからと主張するものであり、基本的人権と公共の福祉は決して対立する概念ではないといことは、「生きてるんだから生きる権利がある」というようなものではなく、元来子供でも理解が及ぶものであり、知識層の誤った教育によりあたかもヒューマンライツを人権と翻訳しあたかも権利のような錯覚と幻想を与えてしまった
そもそも「権利」という言葉が誤訳である。
そこからすべて間違いが起こっている。
「権利」という語は、英語の「Right」の翻訳語であり、「Right」を「権利」と訳したのは、幕末から明治にかけて活躍した秀才、西周(にしあまね)である。
西周(にしあまね)は、30代で徳川慶喜のブレーンを勤めたほどの秀才であり、藝術(芸術)、理性、科學(科学)、技術、哲学、主観、客観、理性、帰納、演繹、心理、義務などは、どれも西周の翻訳語だ。彼は翻訳の意義を外国語を外国語のまま紹介したのでは、専門の学者にはそれでいいかもしれないが、その心とする語彙が広く世間に普及しない。欧米の概念は、欧米の言葉で学ぶだけでなく、その意味や意図を、我が日本のものとしていかなければならないという考え方によるものである。
そしてその西周が「Right」を翻訳した言葉が「権利」だったのである。
それに対し、福沢諭吉は「『Right』は『通理』か『通義』と訳すべきで、『権利』と訳したならば、必ず未来に禍根を残す」と、厳しく指摘している。
福沢諭吉は「『Right』は『通理』か『通義』と訳すべきで、『権利』と訳したならば、必ず未来に禍根を残す」と、厳しく指摘している。
その理由について、ひとつは、「権利」には能動的な意味があるが、「Right」は受動的な力であること、もうひとつは、Rightには「正しいこと」という意味があるけれど、「権利」という日本語にはその意味が含まれていない。「Right」を「権利」と訳せば、個人が自らの利益のために主体となって主張することができる一切の利権という意味になるが、英語の「Right」には、そんな意味は存在しない。つまり、「Right」は、個人の好き勝手を認める概念ではなく、誰がみても妥当な正当性のあるものが「Right」の意味なのである。さらにいえば、「Right」には、正義という概念が含まれます。要するに、誰がみても正しいといえる一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた概念が「Right」なのである。「Right」を「権利」と訳すから「権利と義務」とか、よけいにわかりにくくなる。「Right」が通義なら、「権利と義務」の本来の意味は、「一般的確実性と普遍的妥当性を兼ね備えた正義と、これを享受するための義務」となり、意味が、ずっとつかみやすくなる。
つまり、人権と公共は対立概念などではなくコインの表裏なのである。
HECPにおけるヒューマンライツとはー
これを運動論的に置き換えると、新しいパブリックは「個人が作る公共の領域」として再定義される。組織の権威は個人のパブリックの領域には及ばず、個人は自立した存在になる。公共の福祉と基本的人権は決して対立概念ではなく同じベクトルに存在する。公共の軽視はそのまま人権の軽視と同義なのである。日本人はrights権利とduty義務と分けて考えるがこれはコインの表裏であり、概念立体としては 、共に「人として」と理解すべきである。つまりrigutsもdutyも人権というのは人としてどうあるべきかという普遍的な美意識の問題として考える必要がある。
私たちの目指す社会は、あらゆる面において多層的だ。つまりその外形は多層キュビズムにおけるインテグリティは不細工で、不揃いだ。ダイバーシティの人権や環境、共同、公共を具象化していくと合同な正方形で囲まれた立方体ー正六面体の具象化ではおさまらない。インテグリティとは、誠実、完全性、全体性、整合性、統合性、などの意味を持ち、人間は誰しも自分の直面する世界について、あるイメージを作って生きている。これを世界イメージ、世界観、あるいは単に生活観のようなイメージをできるだけ広く筋の通ったものにする努力、それが思想であり、そうした全体としての一貫性を示すのがインテグリティintegrityと言う表現である。
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