止むに止まれない「悪」は「正義」でもあり、
当たり障りのない「正義」は「悪」でもある。
フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領が、その尋常ならぬ言動で国際的な注目を集めている。2016年6月末に就任して以来、犯罪者の「超法規的」処刑を擁護し、それを批判する政敵を罵倒し、知識人には、眉をひそめて彼の言動を批判する者も少なくない。しかし、ドゥテルテへの支持率は9割から8割を維持したままだ。しかも、貧富の差、言語集団の多様性といった、あらゆる社会亀裂を乗り越えて、彼は支持を集める。
規律ある国家の希求
ドゥテルテとその支持者を、「途上国の衆愚政治」とと判断するのは誤りである。従来の大統領が「豊かさ」を国民に与えると約束したのに対して、ドゥテルテは厳格な「規律」を与えることを掲げた。人々が「規律」を支持したのは、自分勝手な者たちが自由を食いものにしてきた結果、国家の制度が機能しなくなっているという苛立ちのためである。ドゥテルテの「規律」が支持されたということは、このジレンマを解消したいと考える人々が増えてきたことを意味する。彼らはドゥテルテが非効率で腐敗したシステムを破壊し、厳格な規律でもって公式の制度を再生させてくれることに期待を寄せたのだ。
善良な政権の「良薬」
善良な政権は、政治家の腐敗を取り締り、優秀な政策ブレーンを迎えて改良的な政策形成に取り組んでいく。これは公式の制度を漸進的に改善していく実践だが、効果が出るまでに時間のかかる「良薬」ではあるが、いつまでたっても効果の現れない「良薬」に対して「いつまで待ったらいいのだ」としびれを切らし、副作用の大きい危険な「劇薬」を選んでいくのである。公式の制度を機能させるために、非公式な手段に訴えるという選択は、公式の制度をいっそう弱体化してしまう危険を伴うのである。
「知識」の世界の正義から、「習律」としての正義へ
民主主義体制における市民的公共圏の崩壊は深刻だ。 伝統的に民主主義を草の根で支えていると言われてきた、地域町内会、教会、学校、組合などの公共的団体などに所属する人が低下している一方で、個人主義の膨張、反自由主義的・反民主主義的な集団の増殖傾向がみられる。こうした状況は、市民社会そのものの危機であると言える。
先進国が危機から脱する出口が見えない状況は、リーダーが凡庸というだけでなく、社会の中間層、中核をなす人々の、自分さえ良ければいいという “エゴイズム” 自己満足の強い “ナルシズム” から生まれている。そこに問題がある。
この状況を本当に打開するためには、今更のように聞こえるかもしれないが「善き人生とはどういうものか」という根本的で倫理的な問題について考えるべきである。そして各国が、あるべき姿を模索していかなければならない。
全く機能しない「警察」という行政
「警察」とは、実力を以て社会の治安を維持する行政作用及びその主体をいい、社会の安全や治安を維持する責任を課された行政機関である。日本における警察は、個人の生命、身体および財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧および捜査、被疑者の逮捕、交通の取締りその他公共の安全と秩序の維持を責務とする行政の作用をいう。
しかし、市民社会においては、こうした犯罪の予防や治安の維持などの活動の行政警察活動や既に起こった犯罪についての捜査や犯人逮捕などの活動を司法警察活動ももっぱらドラマなど以外では、実態としてお目にかかることはない。
習律なき「正義」思想
そもそも法は形骸である。何よりも重要なのは法ではなく法源としての習律なのである。近代の立憲民主制では、市民たちが異なった価値観・世界観を持っていることが前提になっている。そうした、深いレベルでの一致を無理に目指すことなく、お互いの価値観・世界観に対しては干渉せず、共通の利益に関わる公的事柄に関してのみ一定のルールの下で集団的自己統治を行う、というのが、立憲民主制の大原則である。
そういう意味では異なった価値観を許容する社会や組織においては、法という「マニュアル」は必要である。しかし、それ以上でもそれ以下でもない。重要なのは、その法の根拠となる法源としての習律である。現実的な意味での「正義」思想は習慣の結果として生まれる。実践することによって覚えられる類のものだ。国家も国民も「正義」思想を身につける第一歩は実行することだ。それは技能を身につけるのと同じことなのである。
これからの「正義」の話をしよう
サンデル風に表現すると、例えば週末の夜になると国道や幹線道路だけではなく、住宅地の生活道路に至るまで、バイクが爆音を上げて走行光景は全国至るところで、ごく当たり前のように日常的に見受けられる。こうした爆音や走行は周辺住民や通行人に対して、特にお年寄りや女性子供のストレスは想像以上に大きい。病院などの周辺の爆音は命に関わる場合もあり、一般の人間も命を擦り減らしては紛れも無い事実である。一人の「権利」のために、数十人、数百人の人間に騒音や接触事故などのリスクが生じるのである。警察もネズミ捕りや自転車の二人乗りの取り締まりはできるが、その評価に対するリスク対効果においてこうした違反事例に対しては全くのお手上げ状態である。住民が騒音や交通マナーや違反走行について、警察に相談しても相手にされれることはない。
沿道から暴走する車列に向けて卵を投げる。
このように警察行政が全く機能しない場合において、市民が直接実行することは、「正義」なのか「犯罪」なのか究極的な場面に対峙すれば一体どうすればいいのか。つまり、「市民逮捕権」の問題である。法律家をはじめ、専門家知識層は沿道から卵を投げるような行為は、対象車両や運転者に当たれば、転倒すれば危険である。他の車に当たる可能性もありリスクが大きい、ひいては、卵が勿体無いや道が汚れるなどの議論を呼び起こしてしまうのである。しかし、一方でこうした違法行為の放置は周辺住民の生命や生活権の問題だけではなく、様々に発生する社会のモラル崩壊の根本的で最も重要な問題なのである。
ドゥテルテの「正義」を批判することは簡単である。しかし、誰かが卵を投げれば暴走行為は一気に消滅する。確かに問題における対症療法で、その矛盾は他に向くだけかもしれないがこうした行為の対象者に対するプレッシャーを与えることは厳然たる事実なのである。
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