「できすぎず、もてなさず。」芸術的三法ー 入店法/閉店法/POP法

1「入店法」ー全ての「家」が「店」になり、「宿」になる共有可能性。アベノミクスを超える政策アドボカシー。

知識の世界の住人にはこの危機を乗り越えることは出来ない。

日本社会が初発的に取り組むべきは「働き方改革」ではなく、「買い方改革」である。つまり、まず変わるべきは生産者ではなく、消費者なのである。「おもてなし」という言葉に象徴される、消費者中心の社会のあり方が変わらないと「働き方」は変えることはできず、新たなパラドクスを生み出すだけだ。

つまり、「できすぎず、もてなさず」である。日本社会に巣食う「完全崇拝」というクオリアの問題は、日本社会に突きつけられている壮大な命題なのである。

しかし、逆にいうと、この論点を一点突破することにより、現在日本が突きつけられている高齢化社会、年金社会保障、財政再建、地方創生、空き家問題、障がい者、女性、貧困格差などjapan's biggest challengeが一気に見事に解決するのである。


「入店法」の意義として大きく三つあげられる。


一つ目は、道徳的、文化的なものである。

二つ目は、労働者保護の観点である。

三つ目は、小規模小売店の保護である。

入店法においては

(1)お客は、店の出入り、訪問には「挨拶」「礼」を行う。

(2)お客は、店の近隣の住民や年長者に対して「敬意」を表す。

(3)お客は、モラルやマナーに対する「反則」行為は行わない。

の三つの取り組みを規定している。


一座建立


日本のスーパーチェーンでは、バックヤードに下がる時、すべての従業員は「フロア」に対して一礼する。「フロア」は武道における「道場」と同じ意味を持つ神聖なパブリックスペースである。お客にとっても同様で、小規模小売店の場合は、家であろうと店であろうと、入店の際は声かけやチャイムなどにより、入店の意思を示し、入場する際には深く挨拶一礼する。それまでは店や家はプライベートな空間であり、無駄な照明や空調も防ぐことができ環境にも優しいということになる。つまり、入店法では、お客と店の境界をとりのぞき、お客も「フロア」をパブリック空間として共有する重要な役割を担っているのである。


「おもてなし」が日本を苦しめる


よりよい商品・サービスを追求するあまりに疲れ果てている日本人は、不便な海外の生活に学ぶべきかも知れない 「日本って、すみずみまでサービスが行き届いていて、なんて快適に暮らせる国なんだろう」――。そのすばらしいサービスや便利さの背景に何があるかというと、長時間労働が跋扈し、それが高齢者や障害者を排除し、女性の育児と仕事の両立を阻む原因となっている。


〝シェアリング・コミュニティ〟という共有可能性


普段自分一人だけいるとき、家は「プライベート」な空間だが、お客がくれば、その空間は「パブリック」になる。つまり、「パブリック」と「プライベート」は対立する要素ではなく、何を「プライベート」にして何をオープンにし、「パブリック」にするかということを個人が自分自身で選んでいく自己決定性だという。自らの部屋をオープンにして、シェアリング・コミュニティとして、世界中に宿泊先を提供したり、手料理を地域の人とシェアするといったさまざまなシェアリングサービスは、「個人個人がいろんなリソースをパブリック化し、シェアすることで、地域、経済、市場の共有可能性が生まれるのである。

人間の社会生活上の基礎である、家族や地域社会の、社会的機能がどんどん減少しつつある。それを補い、サポートし、支援する仕組みがなければ、家族や地域社会はますますやせ細っていき、家族や地域社会が衰弱したら、社会の存立そのものが危うくなる。このような社会の変動期にあっては、家族や地域社会の実態の変化にあわせたパラダイムシフトが必要になり、それこそ人びとの望む新しい〝公共性〟ということになるのである。


「とにかく客が働く」の海外のスーパー


海外ではお店での買い物も、店側は「お客様は神様」とはこれっぽっちも思っていない。スーパーのレジは、レジ係がかごから商品を出してレジを通し、かごにきれいに入れ直すのが一般的な日本と比べたら、驚くほどのサービスの悪さだ。客はベルトコンベアーのように動く台に、購入したい品物をかごから出して置く。すべて出し終わったら、「次の客」と記された仕切りを台に置く。そして、素早くレジに隣接した袋詰めのスペースに移動する。


スリープという待機モード


スリープとは、省電力の待機電源モードのことである。通常の起動状態と比べると大きく電力を節約できる上に、起動中のプログラムなどを終了させることなく、素早いリブートが可能となるといった利点がある。クローズドオープンは、「少し開いている」という概念である。自宅の公共化=パブリックネスの理念は自宅開放=オープンであるが、その利用に関しては、「入店」が何よりも重要なのである。従来の常識や概念とは全く異なる独自のマナーとルールが必要になってくる。

海外では、10時過ぎに、10時開店と書かれていたとある店に入ろうとしたところ、ドアに鍵がかかっていて開かないのだ。立ち去ろうとすると、後ろで物音がする。振り返ると、店員が内側からドアのカギを開けているところ。最初の客が来るまでドアは閉めておく習慣なのだ。客が来ないうちは、店を閉めて事務的な仕事に集中する。ある意味合理的なやり方だ。日本のデパートが時間ぴったりに開店し、店員がお辞儀をして入店する客を迎える光景とは、実に対照的だ。


パリの地下鉄ホームに駅員の姿はない


日本では当たり前の「間もなく電車が参ります」のアナウンスなどない。発車ベルすら鳴らない。いきなり電車のドアが閉まって動き出すので、乗客は大いに気をつけなくてはならない。そういえば、ホームで駅員の姿を見ることもほとんどない。

さらに、日本の駅のホームには、現在地の駅名が書かれたパネルに前の停車駅と次の停車駅が表示されているが、パリの地下鉄にそんな表示はない。駅のホームの壁にはめ込まれたパネルには、その駅の名前が表示されているだけだ。それだけ見ても、どちらの方面行きの電車のホームかはわからない。天井に近い場所に、終点の駅名を表示した看板が掲げられているので、それを見てどの方面行きかを確認する。


働くフランス人は、どこか心に余裕がある


サービスを受ける側としては、日本と比べて驚くほど不便に感じるフランス。しかし、暮らしてみると、案外支障はないものだ。そして、その分働く人の負担は軽く、快適に働けるということ。そのせいか、働くフランス人の表情は明るい。同僚同士で冗談を言い合ったり、店の人が客に冗談を言ったりしていて、心のゆとりを感じる。日本の行き届いたサービスは、消費者にとって心地よいが、暮らしていくために必ず必要なものだろうか。働きやすい職場を増やすためには、少しくらい不便でも構わない、という姿勢が必要なのだ


現在の市場社会が競争原理主義に片寄り過ぎ、消費者のマナーが顰蹙を買っている状況が多く見られる。 


日本の「おもてなし」は、いい意味でサービスの「プロフェッショナルイズム」とも言えるが、一方で「客」という概念が未成熟な「見た目主義」のサービス社会であるとも言える。細部への行き過ぎたこだわりが過剰にモノの命を無駄にしている場合も多い。「行き過ぎた便利さ」と「行き過ぎた快適さ」からの脱却を可能にするために、倫理消費者=志のある客へのパラダイムシフトが必要である。古来より、日本には職人魂とか商人魂というのが昔からあり、近江商人の心得「売り手よし、買い手よし、世間よし、三方よし」優れたプロフェッショナリズムがあった。これは「行き過ぎた便利さ」と「行き過ぎた快適さ」からの脱却による「労働」の復権であるであるとも言える。

大人が子供にかける言葉ー

「車に気をつけて帰るんだよ。」

大の大人が子供に対して「いらっしゃいませ。ありがとうございました。またお越しくださいませ。」などというのはかなり違和感を感じる。どう考えても不自然である。声をかけるのであれば「車に気をつけて帰るんだよ。」などの方が気持ちが伝わりやすいのではないか。また、帰り際に手を振ってあげれば、言葉自体特に必要はない場合もある。我々日本人が“おもてなし文化”を称えれば称えるほど、我々は自分で自分たちの首を絞めているのである。

広範囲にマニュアル化した過度なおもてなしのサービス基準を導入することによって、働く側のメンタルなストレスが顕著化し、高齢者や障がい者の雇用を閉め出している。確かに一見細やかな心配りというのは素晴らしいが 、その反面細部への行き過ぎたこだわりが過剰にモノの命を無駄にしている場合も多い。そもそも、


日本の過剰労働と新規起業の萎縮は、「お客様」の暴走が原因だ


労働者を守るために「ブラック客」の目を覚まさせるためのいちばん有効な手は、サービス提供者がノーをたたきつけることだろう。欧米では、過剰なサービスを要求する客を、「客ではない」と店が拒否する。

 日本のサービスは、「おもてなし」という言葉で表される。大辞泉によれば、「もて成す」とは、「心をこめて客の世話をする」ことを意味する。しかし、心を込めて客の世話をするという意味を、現在は一方的な奉仕をすると理解され、「お客様は神様」の状況になっている。客の立場が異常に高く、サービス提供者がへりくだるという、歪んだ関係だ。 「我々日本人が“おもてなし文化”を称えれば称えるほど、我々は自分で自分たちの首を絞めている」生きるには“最高”、働くには“最低”な国である。 


過剰なサービスを要求する「お客様」


日本ではいつだって、カネをもらっている側の人間は、圧倒的に立場が弱い。なぜ、このような客の振る舞いが許されてしまうのだろうか。

日本のサービスは、「おもてなし」という言葉で表される。大辞泉によれば、「もて成す」とは、「心をこめて客の世話をする」ことを意味する。しかし、心を込めて客の世話をするという意味を、現在は一方的な奉仕をすると理解され、「お客様は神様」の状況になっている。客の立場が異常に高く、サービス提供者がへりくだるという、歪んだ関係だ。

日本では、スーパーで買い物をするだけなのに、店員さんは丁寧に両手を揃えてお辞儀をしながら「いらっしゃいませ」と挨拶。接客中も笑顔を絶やさない。日本の接客が素晴しいの間違いないが、「どんな場所でも、“おもてなし”されて当たり前」とする日本文化は、実は世界から見たら異常なのである。レジなどでの「ありがとうございました。また、お越しくださいませ。」などの対応は限られた時間の中で土台無理がある。次客の対応も遅れ、業務の集中度を低下させる。少額購入の客側などには逆に恐縮感を与えるだけでなく、レジ通過進行のリズム感も削がれ、精神の伴わない儀礼は誰も喜ばないのである。


日本は本当に外国人をもてなす気があるのか


上っ面のポーズであるのなら、そんなものはすぐにやめたほうがいい。自然体で向き合えばいいのだ。日本の"OMOTENASHI"を海外に売り込もういう戦略があるみたいだが、確かにそのホスピタリティマインド自体はたいへん尊く、事実、日本では古くから旅館や料亭など様々な業種業態において日常的におもてなしの精神が実践されてきた、日本の伝統財産であり、たいへん素晴らしいものである。しかしながら、その奥にある精神性を踏まえずにその形象だけをマニュアル化して、猫も杓子も同じようにおもてなしというのは如何なものか。老舗や高級店だけではなく、一般コモディティーのサービス業に対し、広範囲にマニュアル化した過度なおもてなしのサービス基準を導入することによって、働く側のメンタルなストレスが顕著化し、高齢者や障がい者の雇用を閉め出し、さらに、若者ですらこのような不況下の求人状況でもサービス業に人が集まらないという、雇用のミスマッチも生み出している。確かに一見細やかな心配りというのは素晴らしいが 、その反面細部への行き過ぎたこだわりが過剰にモノの命を無駄にしている場合も多い。





2 ドイツの閉店法 Ladenschlussgesetz

モデルであるドイツの「閉店法」とは      

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