モノや社会のデザインにおいては外側を形象する領域は、どんどん小さくなっていく。今後、「モノとしての在り方」、「人としての在り方」をどう形象するかが、ますます重要になってくる。外側と内側はコインの表裏であり、トータルで最適化していかなければ、良い立体は作れない。
デザインという戦争
日本のモノづくりの凋落は、政治の問題でもなく、金融の問題でもない。
デザイン=設計力と構成力の衰退である。
近い将来、日本のデザインは中国企業にも負ける日が必ず来る。
中国語ではデザインを『設計』と書き、デザイン大国のイタリアのデザインを示す『デセーニョ(disegno)』も『設計』という概念だ。日本のデザイン教育で行われているのは『美匠』という外側に過ぎない。日本のデザイナーがよってたかって、フィーチャーフォンのプラスチックの「蓋」をデザインしている間にiphoneが出来てしまった。
中国は“デザインは新しい資源”と打ち出して、1000以上の大学にデザインの専門課程をつくり、今、60万人以上の学生がデザインを学び、デザイン人材の多くは、米国や欧州のデザイン先進国で留学を経験している。経済構造の転換に向けてデザイン産業育成を巡る中央政府の意志も強い。
日本の美大やデザイン教育機関は完全にガラパゴスである。現在の日本に必要なのは政府によるデザインやアートに対する助成ではなく解体だ。芸術教育を不要とする主張と、芸術教育をすべての教育の根底に置くべきだとする双方が解決を図ろうとする『ダイナミックな構図』こそ、日本のデザインの試金石であるとも言えるのだ。
1970年代後半のアメリカ合衆国・ニューヨーク市において芸術教育不要論の声があがり、ニューヨーク市は小学校の芸術専科教員のおよそ99%を切り捨てた。芸術の街ニューヨークで起こった事態は、皮肉にも世間の「芸術」活動と学校の芸術教科とがいささかも連動していないことが証明された。
アメリカでは「Coming to Our Senses」という巻き返し運動が生まれたが、現在の日本では民主主義は形態こそ整えてはいるものの形骸化しており、反対や意義申立ての運動すら起こることはない。『芸術』においては市場もなく自立できずそのため、自らの存在理由を見いだすことが出来ず、社会活動から完全に浮遊しているのである。
美大やデザイン教育機関がなくなれば、日本のデザイン人材は中国と同様に本番の米国や欧州のデザイン先進国で留学を経験することができる。こうした本気の人材に対して政府は支援するべきである。日本のデザインはもう一度「バウハウス」からやり直し、真の工芸教育の再構築を急ぐべきである。
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