BUILD THE REGION
HECPの「家」と「地区」の再構築
私たちの「家」が世界の中心になる。ー
オルタナティブな「芸術」の論理化と概念化
コンセプト概要
『芸術再武装』ー革命のスタートはじつに簡単だ。
「芸術」というクオリア
これは僕たちにとってのアウトノミアなんだ。
ねえ、ネグリ
きみに注意してもらいたいのは、
まさに、この新たな心理なんだ。
THE REGION 「家」と「地区」の再構築は、僕たちにとってのアウトノミアなんだ。それは、法も税も暴力を通さない、空家転用と自治権の確立を目指して行われた、「公共的スクウォット」というインスタレーション。
でも、これは知識の世界の芸術運動ではなく、無名のシチュアシオニスト人々による「転用」=ずらし(ディトルヌマン)を使った芸術運動なんだ。
「アッサンブラージュ」、最も単純な物事を寄せ集めることから始めてみようじゃないか。
だからこそ、この素晴らしい新たな冒険に
僕たちと一緒に出発しようって、きみを誘ってるんだよ。
僕たちはとても混乱しながら探求を進めているんだ。でも、僕たちはこう確信しているんだ、このテロや災害の続く何年かは、なにはともあれ、僕たちが存在の新たな次元を発見することを可能にしてくれるだろう。
「芸術」とはなにかを理解するということは、次のことを理解するということでもあるんだ。
日本の危機的状況の原因の根本は「家」にあって、地球規模での〝家と地区の再構築〟の観点から、初発的に「家」の形象を全ての始まりにするべきなんだ。
「家」の強みは、それが存在の内部に生きているということ、存在を完全に包囲することができるようになるまで、そのどんな小さな欠片をも自分のものにすることができるということなんだ。
そして、「芸術」はいかなる具体的存在も必要とはせず、価値創出のすべての決定に対して、つねに先んじるのが「芸術」なんだ。
個人個人の共同体として、公共圏としての「家」の内側に「芸術」が実存しなければ、「学者」や「議員」のランガージュ言語表現など単なる「豆知識」にすぎないんだ。
このまま社会に具体を示さない「芸術」を続けることは、未来に対して新たな贖罪のアクチュアルを負うことになる。社会は単なる政治的な力関係や権力装置ではなく、それを信じる主体同士の関係の中で発生するものなんだ。モリスの「アーツアンドクラフツ」、ヴォイスの「社会彫刻」や「芸術の拡張」、ツルミの「限界芸術」などというシーニュでは何も変わらない。そして、その答えがHECPの「家」アーキテクチャと「地区」リージョンだったんだ。
1970年代から始まった日本社会に巣食う「完全崇拝」という魔物に対する僕たちの闘争、つまり、「完全」というクオリアの問題は、僕たちに突きつけられた壮大な命題だった。
人権、環境、共同、公共を形象するのは、コミュニズムでもリベラリズムでもない、圧倒的な美意識を持った「humanities」(ヒューマニティーズ)だ。
つまり、これは「芸術」の仕事なんだ。
僕たちはようやくこの問題の核心にたどりつくことができたんだ。
芸術プログラム/HECPとは
What's "HECP"?
HECP(Home Electronics Cafe Program)&
HECP(Humanrights Environment Community Publicness)
〈無名なる者たち〉〈ささやかな者たち〉〈負けざる者たち〉の
〝アンストッパブル〟な芸術運動。
HECP(Home Electronics Cafe Program)は、2016年に日本で始まったカフェパーティー運動
HECP(Humanrights Environment Community Publicness)を「芸術」のコンテクストとして捉えた、オルタナティブな概念による、世界をターゲットとした「家」と「地区」の再構築運動である。
マルクスやレーニンは「革命」を発明した。21世紀の私たちは、「日常」を発明し、再定義しなければならない。そのような努力の向こうに見えてくるのは、具体と普遍の関係についての知見であり、人間性の本質に関する洞察であり、「芸術」の可能性でもあるのだ。
HECPの「家」と「地区」の再構築は、私たちの「日常」が底光りすることの理由をつかみ、形象することが出来た「芸術」である。現代の私たちが形象しなければならないのは、戦争でも革命でも経済発展でもなく、ごくありふれた「日常」の再構築なのである。
HECPの「家」と「地区」の再構築は、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を通じて、コンソーシアムの結成を呼び掛けたのが始まりである。このカフェパーティー運動は、立ち上げるに当たって、政治色の強い米国ティーパーティー運動とは違い、独立概念としての「芸術ーhumanities」(ヒューマニティーズ)を志向し、社会変革を「芸術」の領域から、創造性、多様性を重視し、その実現可能性と持続可能性を図るものである。特徴は高齢者を中心に〈無名なる者たち〉〈ささやかなる者たち〉〈負けざる者たち〉が主体であり、Facebook・Twitter・YouTubeなどの現代的なオンラインツールを活用しているが、あくまで運動の核となるのは、論理化される「家」であり、「地区」である。こうした運動のコミュニケーションは、たいていの場合、小さな共同体や近隣集団のなかからゆっくり始まるが、一定のポイントに達するとウイルスのように拡散するようになる。
HECPの「家」と「地区」の再構築は、国家に抗する反国家の〝共同体〟という意味ではなく、国家や行政区分の概念を超えて、人と地球と社会の自立と共存をテーマに持続可能な芸術的アプローチである。現代社会はイスラムでもない、アメリカン・グローバリズムでもない、「国家なき紐帯」の普遍性と摂理に基づいた人類社会の基礎自治体としてのHECPの実現が求められている。
そして、それは、民族や伝統的、地理的な境界を超えた共通の感性と理想を持っている人々のパブリックネスであり、世界中のあらゆる国と地域において、独立した層における独立した形象である。
世界が抱える様々な問題に通底するメッセージは、「テロや自然災害や貧困から人々の命を守る社会を創れ」ということだ。私たちはその解答として、"THE REGION"ー「家」と「地区」の再構築を提言する。
HECPの"THE REGION"ー「家」と「地区」の再構築は、行政区分や伝統的地理境界を超えたネットワーク社会の地理学であり、オルタナティブなパブリックネスである。「〈パブリックネス〉とは、情報・思考・行動をシェアする行為、またはそれらをシェアしている状態。人を集めること、または人・アイデア・大義・ニーズの周りに集まること。つまり〈パブリック〉を形成すること。そして、周囲とコラボレーションするために、プロセスをオープンにすること。オープンであることの倫理を包摂するものである。」
均質で幾何学的な創造都市化や金融経済効率最優先の人工都市コミュニティに対し、それを無効化し、市民が都市全体を自分なりに「転用」する可能性を模索する。その都市形成において、 オンレイヤー=「築層」というテクニックを提起する。 オンレイヤー=「築層」は、単に物理学的な空間を意味するだけでなく,何かを論じる際の基本的論述形式,あるいは論題を蓄えている場、共通の観念を想起させてることで、特定の場所を意識させる現代の〝トポス〟であるともいえる。
パラダイムの変化は、政治的、あるいは経済的な意思決定の仕組み(議会や市場)によって導かれるものではない、〝新たなパラダイムが現れ、その優位性を示し、次第に現行のパラダイムに取って代わっていくものなのである。
理想の人類社会再興のパラダイムシフトを呼び起こすためには、現代政治のその射程の「狭さ」への反動として、思想射程を拡大した芸術思想運動を展開していく必要がある。
HECPの中核は、有権者と政治家が同意するずっと前に、将来を見据えた行動を起こさなければならないと考えている無名の人びとなのである。
エスタブリッシュメントに対抗するのは、持続可能性を高めようとする個性豊かな人々で、唯一の共通点は、遠い未来を見据えているということだ。
そして、この「グループ」には将来的には国家や団体の、先見の明のある世界的なリーダーも参加する。人類の長期的な未来の構築=Long Construction(ロングコン)ために戦うことを目的とした集団の強力メンバー=コンソラータに名乗りをあげるはずである。
芸術プログラム/'THE REGION’とは
HECP/Occupy 'THE REGION'ーオキュパイ・ザ・リージョン
論理化される「家」と「地区」ー社会的共通資本としての〝家〟
この新たな諸局面、新たな諸形象 、新たな諸世界。
HECPの"THE REGION"ー「家」と「地区」の再構築は、スクラップ・アンド・ビルド(破壊と再構築)ではなく、行き過ぎた人工的な“都市化”からの転用、つまり、「家」と「地区」をずらす(ディトルヌマン)ことに本質がある 。HECPは、日本の危機的状況の原因の根本は「家」にあり、地球規模での"THE REGION"ー「家」と「地区」の再構築の観点から、初発的に「家」の形象を全ての始まりとする「芸術」による運動なのである。
HECPの"THE REGION"ー「家」と「地区」の再構築は僕たちにとってのアウトノミアである。アウトノミアとは、自己学習ー自律・自主という意味だ。1970年代にイタリアを中心として,学校・工場・街頭での自治権の確立を目指して行われた社会運動である。また、スクウォットとは所有者が何らかの理由で不在となり、そのまま放置された建物に人々が勝手に入り込み、占拠し、生活、管理をしている場所のことである。スクウォットの重要性とは、人々が集まり、自分達の文化を生み出すスペースを供給しているという役割だ。HECPの公共的概念としてのスクウォットは、様々の実践を通じて文化創造と社会的包摂にむけた「家」と「地区」の再構築を目指すインスタレーションである。「家」は社会的共通資本であり、基礎自治体である。国有であろうと、私有であろうと所有者の勝手は許されない。社会的共通資本は、国有か私有という所有を問う概念ではない。社会各層の関与によって策定された制度にのっとって管理・運営される。そしてその管理の在り方は、歴史的な経路の中で、進化していくものなのである。
「アッセンブリー」の転用により出来上がった「家」もまた、一つの「アッセンブリー」に過ぎない。
アッサンブラージュの原点は、「寄せ集めること」と「未完全であること」である。アッセンブリー(部品)を本来とは違った方法で使用することによって、使用者の主体性を回復しようとする試みであり、それは「転用=ずらし(ディトルヌマン)」と呼ばれる。
HECPの"THE REGION"ー「家」と「地区」の再構築とは、都市インフラのような「大芸術」と「家」と「地区」という「小芸術」に二分しつつも、分離した両者を芸術全体へと再融合すべく、日常生活の「小芸術」に足掛かりを求める。高齢者が「小芸術」の在り方を見直し、日常的な暮らしの中で使われてきたアッセンブリーの転用による「用の美」を見出し、活用する日本独自の運動である。用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二なのである。
「家」と「地区」の再構築は、〝家〟を工芸的側面ではなく、「住まい=Home」という生活の場として捉える。そして、リ・コンシャスの「芸術」のひとつである「小さな家」づくりを「全ての始まり」としている。初発的には日本の各地での「家」と「地区」の形象は、究極的には世界中の多くの、〈無名なる者たち〉〈ささやかなる者たち〉〈負けざる者たち〉が〝自己学習〟により、自足的に家を構えることを理想とするのである。
〝家〟の強みは、それが存在の内部に生きているということ、存在を完全に包囲することができるようになるまで、そのどんな小さな欠片をも自分のものにすることができるということなのである。そして、芸術はいかなる具体的存在も必要とはせず、価値創出のすべての決定に対して、つねに先んじるのが芸術なのだ。
新たな生命の始まりは、ニワトリでもなく卵でもない。ニワトリ以外の鳥の卵だ。
〝ニワトリと卵〟の議論は、切り取って言えば〝ニワトリ以外の鳥が卵を産み落とし、孵化した卵は変異によってニワトリという鳥になった〟と考えるのが合理的だ。 つまり、「ニワトリ社会は、ニワトリ以外の鳥によって作られる。」のである。良い社会を作るのは「学者」や「議員」の役割ではなく、「芸術」の仕事である。もちろん、「芸術」とは決して絵の上手な人間の類いを指すのではない。「芸術」とは圧倒的イノベーションの実践者であり、いち早く未来に目を向けて、その予想図を持続可能な社会へと変換する人々を指すのである。
良い社会がなければ良い政治はできない。民主主義においては、「議員」は、良い社会を作ることなどできないのだ。
東京いう社会が変わらなければ、都庁や都議会は良い行政はできない。民主主義や市場主義においては、議会や行政、そして企業などに良い社会の創造を期待すること自体その発想はずれている。社会を変革するのは私たちの命題なのである。
芸術プログラム/STAND3.0とは
HECP/STAND3.0
「スタンド」とは、個の「自立」と「覚悟」の概念だ。
今後、世界中で群発的に「スタンド」がわき起こる。
世界を変える「高齢者」の登場ー
世界中の「家」がホワイトハウスを囲む。
トランプの台頭は、アメリカという「場面」で展開される「エスタブリッシュ」と「マルチチュード」の囲碁戦であり、アメリカ大統領は「チェス」の王様ではなく、トランプも一つの「囲碁」の駒に過ぎない。
トランプは答えの出ないところで強さを発揮する。「自分にしか打てない」「打ちたい所に打つ」を信条とし、あらゆる「場面」を自在に打ち分け、自分が最善と思った手は「愚形」や「悪形」であっても常識に囚われずに打つ。勝負手を発見すると時間を惜しみなく使い切る。
「しかし、日本は君の思いのままにはならないよ。」
日本人はようやく問題の核心にたどりついたんだ。僕たちの今は、君が「有名になるまえのマドンナ」であったその時間性に存在しているんだ。
HECPという、日本のオルタナティブ・カルチャーに共感する数億人の「ジャパン支持者」を世界中に作りだす。
今後数年間で、人々の心の中に地球規模の意識が出現するだろう。その本質や大きさは今のところ分からないが、数年後には、世界は距離がなくなり、クラウド・シンキングのその新たな意識は、私たちに論理的な結論をもたらすだけでなく、他の人々のタスク(行動)を通じて、世界中で群発的に発生する。「スタンド」という運動は別に誰かが「そうしよう」と決めるわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものである。
「スタンド」とは、個の「自立」と「覚悟」の概念だ。今後、世界中の紛争地区や被災地区で群発的に「スタンド」がわき起こる。世界の構築に参加する諸々の主体からなる多様体のなかで共有し、特異的形象を発明する。これが「芸術」の〝シンギュラリティ〟である。「芸術」は、スタティックな、モニュメンタルな造形を創造することではなく、スタンドと化した構想的プロセスのことである。STAND 3.0はこの文脈において、言語表現やシーニュではなく、潜勢力であり「芸術」なのである。
テロとの戦いは〝共同体〟をめぐる芸術の〝囲碁戦〟だ。
国家によるイノベーションに駆動されて加速度的に変化し成長し続ける世界というイメージはもう終わりに近づいている。「テロ」との戦いは〝共同体〟をめぐる芸術の〝囲碁戦〟だ。「テロ」との戦争を言い出したときから、戦争には輪郭がなくなり、そのあおりで世界中にしだいに戦争が拡散しているという気配が出来上がっている。多くの「議員」の発想は、昔の国家間戦争のドグマから抜け出すことができない。今、国家による「チェス」の話をすること自体、もともと出発点でずれている。
「囲碁」の場合、駒は白と黒によって敵と味方を区別されるにすぎない。駒たちはすべて無名で、特性がなく全て平等である。これに対して「チェス」の駒は、序列化された階層構造の中で明確に役割を与えられている。その機能を変化させることはなく、最終目標のために任務を遂行する。「チェス」の駒は、その役割に応じてコードに沿った動きをするが、これに対して「囲碁」の駒には戦線もコードもなく、戦略如何によって、いかなる地点にも出現しうる。「囲碁」の駒は、突然現れる。突発的な権力行使によって、状況を劇的に変化させることが出来る。
現在の〝場面〟において最も必要なのは、状況を劇的に変化させる「捨て石」である。「捨て石」とは、後々の局面で自らの形勢を有利にするため、わざと相手に取らせるように打つ石のこと。さしあたって効果がなく無駄なように見えるが、将来役に立つことを予想して行う行為のことである。
世界が抱える様々な問題に通底するメッセージは、「テロや自然災害や貧困から人々の命を守る社会を創れ」ということだ。その解答がHECP/"THE REGION"ー「家」と「地区」の再構築なのである。
HECPは、国家に抗する反国家の「共同体」という意味ではなく、国家や行政区分の概念を超えた、現実態としてそれぞれの地域やそこに住んでいる人々が、住んで生きられる状況をつくっていく非国家な「社会的紐帯」としての機能を果たす。そのためには、国家は基本的で一次的な秩序形成だと言える。現代社会はイスラムでもない、アメリカン・グローバリズムでもない、世界国家なき世界社会の普遍性と摂理に基づいたHECPの実現が求められているのである。
HECPは人と地球と社会の自立と共存をテーマに持続可能な「家」と「地区」の再構築を目的とした芸術的アプローチだ。そして、それは、民族や伝統的、地理的な境界を超えた共通の感性と理想を持っている人々の共同公共圏なのである。リージョンは、世界中のあらゆる国と地域において、独立した層における独立した形象。それが〝HECP〟-人権環境共同公共体なのである。
私たちが予想する以上に、世界は大きな変動に向かって動き出している。私たちは、歴史的な時間を加速していかなければならない。もはや、「学者」や「議員」の退屈な議論につきあっている時間はない。私たちの時間性は両義的世界観のオルタナティブな構成的プロセスへと移行し、未来からの観点から、先回りして来るべきものを把握し、「芸術」を囲んでいくことが何よりも重要なのである。
「芸術」というクオリア、「具体」を離れたアカデミー
「芸術」とは自分自身に内在する「正義」を発見する競技
貧困や紛争は人類の歴史における重大事であり、何らかの普遍的な原理を標榜してそれを議論したいという欲望は誰にでもある。しかし、事象の本質は、それを体験する一人一人の人間にとっては、必ず些細とも思われるような具体的な「家」の中に顕れる。つまり、人間にとっての普遍的な事柄は、それぞれの人生の個別性において顕れるということであり、「芸術」は人間にとって普遍的な意味を持つ事象を、日常と切り離した観念的存在として描くのではなく、日々繰り返すごくありふれた営みの描写の中に描くことがレゾンデートルなのである。
「芸術」の天才とは「不作為」の天才である。〈無名なる者たち〉〈ささやかなる者たち〉〈負けざる者たち〉ほど洗練された手腕を見せる芸術家はいない。そこには先入観や固定概念も何もなく作為も存在しないからだ。
私たちの芸術は、貧困や災害や紛争のように、人間にとって非常の事象が描かれる時にもっとも先鋭的な深みを示す。貧困や紛争はマクロな事象であるが、ミクロでプライベートな体験を積み重ねていった時に、ぼんやりと姿が見えてくる巨大な化け物を、私たちは「クオリア」として感じているのである。最初から、確固とした抽象的存在として、貧困や紛争があるのではない。だとすれば、貧困や紛争を描くには、内側からミクロでプライベートな体験の切実さに寄り添う以外にはないのである。
貧困や紛争、自然災害の悲惨さについて、多くの「情報」や「知識」から「知能」を費やしてラディカルに語ることも時には必要であろう。しかし、そのような「アカデミー」は「芸術」でも何でもない。私たちの「芸術」は、科学的でもなく、合理性もないなどと揶揄されるだろうが、人間にとっての苦難の「クオリア」をよりリアルに繰り返し表現していくことなのである。
「アカデミー」は、具体から浮遊することで道を誤らせている。そもそも、人類にとって、真理とは何か、善とは何か、美とは何かということを、それぞれの人生の具体を離れた抽象的な形で議論することに、どれほどの意味があるのだろう。アカデミーは、個々の具体を離れた、抽象性、普遍性を獲得してこそ、初めて意味を持つと多くの人が暗黙のうちに前提にして来たが、そもそも、具体の実感と切り離せるものではない。どのように普遍的なものとして構想されている「概念」も、個々の人間の猥雑で混沌に満ちた生の具体とどのように交錯するかという問題を離れては、成り立たないのである。
また、「芸術」とは自分自身に内在する「正義」を発見する競技であるとも言える。真理や美、善や悪という概念は、そのような普遍が個々人の生の具体とどのように関わって立ち上がってくるのかということを含めて、初めてその成り立ちが完結する。HECPの「家」は、「築層」=オンレイヤーでの形象による、具体と抽象の奇妙な「混淆物」であるかもしれない。概念の塔に籠もることで、人々は具体からの安全圏に自分を囲い込むことができる。しかし、具体に自分を投企することなしに、「アカデミー」が抽象的で形而上学的であるのをもって良しとするような、どんな抽象概念も切実さを持ち得ないということを徹底して省察するならば、多くの「アカデミー」が前提としている具体から遊離した形で立てられる「普遍性」の持ついかがわしさが、逆照射されるはずだ。
人間の意識は、その成り立ちからして普遍という形式に依拠せざるを得ないのであり、現実の世界で遭遇する具体の奔流の中で、その成立の根拠である普遍を探し続けなければならないのである。マルクスやレーニンは「革命」を発明した。二十一世紀の私たちは、日常を発明し、再定義しなければならない。そのような努力の向こうに見えてくるのは、具体と普遍の関係についての知見であり、人間性の本質に関する洞察であり、「芸術」の可能性でもあるのだ。HECPの「家」と「地区」の再構築は私たちの日常が底光りすることの理由をつかみ、表現し得た「芸術」である。現代の私たちは、戦争でも革命でも経済発展でもない、ごくありふれた日常の「スタンド」を求めているのである。
芸術プログラム/ホームエレクトロニクス・カフェとは
オルタナティブな「マーケット」としての「家」と「地区」の再構築
HECP/ホームエレクトロニクス・カフェは
日本全国で30万カ所、世界中で2000万カ所を目指す「芸術」プログラム
日本にはすでに「数千万」のカフェの設備があり、「数千万」の家庭料理の料理人が存在する。「HECP/ホームエレクトロニクス・カフェ」はどこの家庭にもある「家電」を使ったキャッシュ・フォーワークによる自宅公共化の「家」と「地区」の再構築プログラムだ。
ホームエレクトロニクス・カフェはドアノブにプレートを吊るすだけで自宅がカフェに早変わりする自宅開放運動である。まずは、近隣住民や友人のお茶会飲みスペースとしてスタートしてみる。安全な地元の食材とキッチン家電を使った、シンプルで過度な技巧にこだわらないアットホームなメニューにより、誰もが一人でも経営できる無理のないオペレーション、その運営スタイルは家族や友人、近隣住民、そしてSNSネットワークによるコンソーシアムやワークシェアリングの概念を導入している。この「小さな仕事場」は自宅を利用することで新たなコストは一切かからず、家電製品を活用することにより、操作も簡単・安全で高齢者をはじめ、障がい者、こどもでも十分対応できる、お茶会や試食会スタイルのキャッシュ・フォーワークの市場活動なのである。
ホームエレクトロニクス・カフェの起業は、自宅や全国に点在する空家や廃屋を舞台にした「公共的スクウォット」により展開され、自主独立の経営と社会的使命達成に対する報酬としての、適正な利益に基づく運営を目指している。自宅と家電を使用することで、ほとんど予算を必要とせず、高齢者を中心に自己学習による参加で、地域社会の主役となり、経済的自立や年金・医療・社会保障の問題の解決だけではなく、高齢者どうしの見守りなどによる地域社会との恊働を積極的深めていくインテグリティな運動である。
HECP/ホームエレクトロニクス・カフェは、普段自分一人だけいるとき、家は「プライベート」な空間だが、客がくれば、その空間は「パブリック」になる。つまり、「パブリック」と「プライベート」は対立する要素ではなく、何を「プライベート」にして、何をオープンにして「パブリック」にするかということを個人が自分自身で選んでいく自己決定性にある。個人個人がいろんなリソースをパブリック化し、シェアすることで、地域、経済、市場の共有可能性が生まれる。つまり、オルタナティブなマーケットは、時間や場所による分割ではなく、オンレイヤー=「築層」による多層な重なりなのである。
HECP/ホームエレクトロニクス・カフェの「家」にはスリープという待機モードがある。スリープとは、省電力の待機電源モードのことである。通常の起動状態と比べると大きく電力を節約できる上に、起動中のプログラムなどを終了させることなく、素早いリブートが可能となるといった利点がある。HECP/ホームエレクトロニクス・カフェのオープンという概念は一般的なオープンとは異なり、「少し開いている」=クローズドオープンという概念である。自宅の公共化=パブリックネスの理念は自宅開放=オープンであるが、その利用に関しては「入店」が何よりも重要になり、従来の常識や概念とは全く異なる独自のマナーとルールが必要になってくるのである。
HECP/ホームエレクトロニクス・カフェでは、一般の客に対しては“JUSTICE”という、ユニークなサービスコンセプトがある。来訪時に「客」はチャイムを鳴らし、入店の意志とあいさつを行ってから部屋に向かうスタイルだ。“JUSTICE”は「客」のマナーレベルに応じて公正にサービスを行ない、マナーレベルの高いスマートなお客のみに客層をセグメントし、「家」と同じように自由にくつろいでもらいたいという考え方である。また、あまりにマナーレベルの低い「客」に対しては利用を断る場合もあるが、「客」はその人柄やマナー以外ー年令・性別・国籍・業界・地位等による差別を受けることはなく反対に、それらによる特典的サービスもない。
HECP/ホームエレクトロニクス・カフェの「家」の特色はオープンソースであるということが言える。誰しもが「自由」に参加することができ、プロジェクトを発展させていくことが可能なのだ。しかし、その入店に関しては「オープンアクセス」と「コモンズ」との区別についての理解が必要になってくる。オープンアクセスというと、「誰でも自由に利用できる」ことを意味するが、実際のコモンズというのは、理念の共有化により実際のターゲットは限定される。そして、利用者にはコモンズを利用するときのルールやマナーが、厳しく規定されているのである。ホームエレクトロニクス・カフェにおいては、「客」は近隣や知人だけではなく、その空間性に興味を持った国内外の人間が来訪することになる。マスコミ、有名なタレントや文化人、大企業の社長や大学の教授だからといって全く特別扱いされることはなく、逆にその無名性が心地よい時間を過ごせることが結果的にリピートに繋がっていくのである。概して、本物のアーチストなどはマナーやモラルもよく、たいへん謙虚で真摯な対応だ。しかし、マスコミや広告代理店などの一般的に「業界」と呼ばれる層は特権意識が強く非常に厄介である。過去にもマスコミメディアがドキュメントを作りたいといってきて、私たちに協力しているので参加費は払いたくないと言ってきたが、私たちは彼らの参加を断った。このプロジェクトの触媒性を保つためには、内部に特権的な人間を作ってはいけないという考え方によるものだ。
現在の日本の市場社会では競争原理主義に片寄り過ぎ、「客」のマナーが顰蹙を買っている状況が多く見られる。 日本の「おもてなし」は、いい意味でサービスの「プロフェッショナルイズム」とも言えるが、一方で「客」という概念が未成熟な「見た目主義」のサービス社会であるとも言える。「おもてなし」は日本の伝統財産であり、たいへん素晴らしいものである。しかしながら、その奥にある精神性を踏まえずにその形だけをマニュアル化して、一般コモディティーのサービス業に対し、広範囲に過度なサービス基準を導入することによって、働く側のメンタルなストレスが顕著化し、「高齢者」や「障がい者」、そして「外国人」の雇用を閉め出し、さらに、若者ですらこのような不況下の求人状況でもサービス業に人が集まらないという、雇用のミスマッチも生み出している。確かに一見細やかな心配りというのは素晴らしいが 、その反面細部への行き過ぎたこだわりが過剰にモノの命を無駄にしている場合も多い。日本社会が“おもてなし文化”を称えれば称えるほど、私たちは自分で自分たちの首を絞めているとも言える。
日本を訪れる外国人観光客の数は増えており、ここ3年ほどで日本経済において予期していなかった「ライフライン」となっている。今や、ホテルやレストラン、航空会社、小売り、博物館などの収益を支えるのは外国人観光客だ。日本政府は当初、2020年までに訪日外国人の数を2000万人に増やしたいとしていたが、その目標は今年すでに達成し、次なる目標を4000万人に引き上げた。
しかし、外国人が日本に求めているのは「カジノ」でも「おもてなし」でもない。日本のアイデンティティ=「魅力」とは、人権や環境に溢れたコミュニティであり、パブリックなのだ。つまり、全国どこにでもある「家」と「地区」の原風景なのである。「おもてなし」や「カジノ」や「万博」などの貧困な発想は、過去の因習に囚われた想像力の不足した「議員」や「学者」の思いつきや錯覚に過ぎないのである。
無名でたったひとつの「家」はその時代の象徴としての「存在感」を持つことが出来るのか。ー「私たちの「家」は、思っている以上に素晴しい!」
「ヒュッゲ(hygge)」な時間を共有する、ホームビジット方式のパブリックネスな「家」
〝「ホームビジット」は、国内外の旅行者が一般の日本人の家庭におじゃまして、宿泊を伴わない短時間の訪問のことをいい、夜ごはんやランチだけを体験することができるアクティビティです。だいたい食事の時間帯を避けた2~3時間、長くて半日程度を普通の家庭で過ごし、日本人の日常生活を理解してもらおうというものです。「どんなふうに歓迎しよう?」と考えるでしょうが、お客様扱いや特別なことをする必要はありません。家族の一員として迎え、一緒に食事をしたり、おしゃべりをしたり、普段着のまま、気楽に接することが大切です。
デンマーク人に「デンマーク人にとって、一番大切なことは?」と聞くと、たいてい「ヒュッゲ(hygge)」という答えが返ってきます。そのあとには必ず「これは、外国語には訳せないよ」という言葉が続く。その時の表情には、デンマークの文化に対する誇りと懐かしさのようなものが混ざっています。たとえば、誰か親しい人の家によばれて、食事を食べたり、コーヒーと手作りのケーキをいただいたりして、ゆっくり時間を気にせずに、心ゆくまでおしゃべりし、軽い冗談を言っては笑ったり、心がくつろいで、なんだかぽっとあたたかい気持ちをその場にいるみんなが共有しているなあ、という感じ。を言います。
ホームビジットをする人(ビジター)も緊張していますから、ちょっとした気配りを忘れずに迎えてあげましょう。ですから、家が狭くてホームステイの受け入れができない家庭や、外国人を迎えるのにまだ不安を感じている方にとっては受け入れやすいでしょう。もちろん、外国人だけではなく、日本全国の日本人の方のご訪問も大歓迎です。
肩肘はらず、シンプルに。いつものコモディティの中に、取り入れてみませんか。はりきって普段と違うおもてなし料理を作って迎えるわけではなく、毎日おうちで食べている、コモディティの家庭料理を用意します。たった数時間。しかも、いつものごはんを一緒に食べるだけ。たったこれだけのことだけど、自宅にいながらにして世界中の様々な人と過ごす時間は新しいライフスタイルになるはずです。〟
芸術プログラム/「家事」は革新的な芸術。
「最も革新的な芸術教育は家事である。」ー日本の知識層に「国家」と「都市」、そして、「家」と「家事」を再融合し、そのインテグリティによる立体テーゼを導き出すことが出来るか。
『家事は「芸術」だ。』ー「家事」は最も革新的「芸術」の核心であり、楽しい。そして人の役に立つ。
『先進国における夫の家事・育児分担率は3~4割が当たり前。子どもがいる共働き夫婦の夫の家事・家族ケアの分担率は、スウェーデンが42.7%、フランスが38.6%、アメリカが37.1%、イギリスが34.8%で、日本は18・3%で最下位だ。
一方で日本の男性の「家事スキル」の低さは問題である。だが、本当は男性も家事をしたくないわけではない。ただ今まであまりやったことがないので、料理をさせても掃除をさせても下手。結局女性がやり直すはめになるから、手を出させてもらえない。それで夫はますます「家事スキル」を身につける機会がなくなるというわけである。本当は男性もやる気はあって、今の若者は男性も家庭科を必修科目で学んだ世代で、ジェンダーフリー教育の成果の現れ、20代の男性の6割が、「男性も家事・育児を行って当然である」と考えているのである。あとは長時間労働の解消など労働環境が改善されること、そして男性が家事スキルを身につけること。それが実現すれば、男女の家事・育児分担率は欧米に近づいてくる。』
しかし、最も重要なことは、「家事」という労働が決して苦痛なものではなく、最も革新的な芸術的形象であるということを理解されていないからである。つまり、「家事」は「芸術」であり楽しい。そして人の役に立つ。また、「家事」は子どもたちの高度な表現力と独創的な思考力を育てる。これからの「芸術」は、学校ではなく、暮らしの中から生まれてくるのである。アカデミーによる「学校芸術」はもはや世界に通用しない。これからの「家」は人を招いたり、招かれたりするサロンになっている。人と人との交流場所だ。そこから素敵なものを家に置きたい、人生の素敵な舞台を作りたい、という気持ちが生まれて、それが「芸術」の土壌になっているのである。子どもの思考・表現が、一つの「世界観」にまで高められていくのである。「芸術」的家事の教育は、子どもと大人の双方が創造性を発揮し、美的で探求的な活動を通して共に学び、育ちあう関わりを形成することにある。しかしそれは狭義の「芸術」教育ではない。ましてや大人の知識・技能を子どもに教え込むことでもない。
一方、社会の紐帯は「生産」を通じて生まれる。社会性・公共性の高い労働である「家事」に高齢者たちが流れる仕組みを作る必要がある。全て人間は、「生産」に携わり、他人の役に立ち、人類の一部としての自覚を持つことで人生に光を見出すのである。すなわち「生産」とは、人が価値ある人生を送るために必須の手段であり、またそれ自体「目的」でもあるものなのである。つまり、人間は「生産」を通じてしか付き合えないのだ。
HECPの"THE REGION"ー「家」と「地区」の再構築は「家」づくりには、高齢者も障がい者も、女性も、そして、こどもたちの手が必要なのである。そして、その中核として「家事」という「芸術」が存在する。「家」には、日常を維持するするだけでも、やらねばならぬ仕事が無数にある。だからこそ、その数だけ人々の労働が必要とされ、誰にでも居場所が空けられ、究極のワークシェアリング社会が営まわれている。「家」は高齢者と障がい者と女性とこどもたちの「家事」の社交場であり、小さな仕事場なのである。
ターゲット/リソーシズ(智慧ある者)
「高齢者」の核心的な存在意義とは、「果実」の表象ではなく、「種」のそれだ。
HECP/Resources
「高齢者」は人類社会の鑑、世界を変える主体である。ー
リソーシズ(智慧ある者)の誕生
高齢化社会の問題解決は、現役世代のマーケットと衝突しない、オルタナティブなマーケットを創出する必要がある。日本社会が抱えるさまざまな問題のひとつとして「少子高齢化」が叫ばれて久しい。日本はいまや高齢化社会のはるか先をいく「超高齢化社会」に突入している。現在、日本の高齢者(65歳以上)人口は2700万人に達し、4人で1人の高齢者を支えている。25年後に全体の約3分の1が高齢者になると予測されているほどの、世界一の“高齢者大国”なのである。この世代の人たちを、年金や福祉を「支えられる側」から「支える側」へと変えていかなければ、超高齢社会の持続は困難になる。豊かな知識と技術、人のネットワークをもつ高齢者は莫大な社会資源なのだ。また、大多数の高齢者は多少の助けがあれば、日常生活や仕事も続けられるのである。
高齢者が恐いのは「貧困」でも、「孤独」でも、「疎外」でもない。本当に恐いのは「尊敬」されなくなることだ。
人は一般に年を取るにつれ、保守的になり、変化を嫌い、安楽に過ごしたいという気持ちが強くなる。日本を見渡せば、多くの高齢者がすることもなく毎日のように病院に時間つぶしに通っている現実もあり、そのことが医療費の拡大となり、国の予算を圧迫している。スポーツ、レクリエーション、リゾートに代わり、未来の子どもたちのための理想の「社会」の構築という「芸術」を活動していけば、「高齢者」自身にとっても、健康維持に繋がり、精神的な健全さが生まれることにもなる。
「高齢者」の60歳から70歳は「独人期」と呼ばれる人生の集大成であり、人生で最も輝きを放つ〝プラチナテンイヤー〟なのである。人生90年時代を迎え、定年リタイア後の人生は決して余りものなどではなく、「60歳」は新しい人生の扉を開く「起算点」にしなければならない。会社や子育てのトンネルから解放され、自分が本当にやりたかったことは何なのか問いかける時期が、この「独人期」にさしかかる人々だ。「60歳」を起算点として、普遍的な真実や自然の摂理に目を向け、不合理な権威や社会的制度、慣習に従わない 受動的不服従により、自らの意思で動く決断するのである。過去の「権威」をシーヴ(ふるい)し、断捨離を遂行することにより、あらゆる新しい可能性を排除しないことにもつながり、新しい人生を手に入れることができる。そして、「60歳」になったからこそ、子供の時に描いていた夢に向き合うことができるのだ。
「高齢化問題」においては、既存のマーケットと競合しないオルタナティブな市場での起業による解決が合理的である。高齢者の定年延長などの政策は結果的に現役世代へ新たな負担を強いることになる。社会に〝パラダイムシフト〟を呼び起こし、大きな変革を実現することは、現実社会や組織のなかで様々な常識や社会的責任などのしがらみがある現役世代では困難である。高齢化問題の解決は、普遍的な真実や自然の摂理に目を向け、不合理な権威や社会的制度、慣習に従わず、自らの意思で決断することできるのは「高齢者」しかいない。高齢化問題の解決に向けての構成的プロセスは極めてシンプルである。無名の〝高齢者〟が現代人の失われた精神性を回復し、人間の生き方を見つめ直し社会を変革する主役になる。高齢者の〝イノベーション〟により国民のパラダイムシフトを呼び起こし、状況を劇的に変化させることができるのである。人間がほんとうに正しいことができるのは、命の区切りが見えた時しかない。「高齢者」にとって最後の仕事が「芸術」であるなら、過去の選択はすべて正しかったことになる。人生という物語においては、最後の場面が最も大きな「見せ場」なのである。
日本のアカデミーは「無意識のカエル」
日本老年学会は高齢者を75歳以上に、65歳は「准」高齢者などという言葉遊びのような提言を行なっている。政治的な背景を意識した高齢者の「定義」の見直しという結論が学会の議論のスタートになっている。高齢者の「定義」を見直し、65~74歳の約1752万人を「高齢者」から外せば、高齢化率は一気に約13%へと半分に減る。まさに数字のマジックである。その上で「まだまだお若い」と74歳まで働くようにすれば高齢化に伴う財政コストを大きく減らせるうえに、“現役”の増加で税収アップまで可能になる。「学者」による国民に対する「嫌がらせ」は、最大権威を背景としたアカデミック・ハラスメントである。
高齢化問題の本質は、「学者」の小さな脳で解決できるような、アカデミーな問題ではない。「色」なのか、「形」なのか、なにが重要なのか解らずに、目の前の「知識」に反応し、チョコチョコした動きだけで「虫」だと反応するような「学者」は、「無意識のカエル」と言われてもしかたがない。 つまり、「学者」の限られた「論理空間」における射程の狭さで、いくら高齢化問題の議論を積み重ねても本質的な解決を導くことは出来ないのである。
私たちは、次の社会へのランディングを拒み「権威」や「利権」にしがみついて、現役社会にぶら下がっている醜悪な「老人」ばかりを見せられている。
日本の政治は「高齢者」から「若者」への世代交代ではなく、醜悪な「高齢者」から、芸術的な「高齢者」への転換が望まれる。なぜなら、若い世代には、仕事や恋愛や結婚、そして、家庭の形象など、人生でやることがいっぱいだ。「高齢者」の役割は現役世代が、国家の基幹である、科学・技術や経済活動に集中できるようなサポートに徹し、「政治」などに興味を持たなくてもいい、理想の「社会」の構築を分担すべきである。そして、高齢者の「政治」活動においては「紙幣」を目的とすることなどは絶対あってはならない。つまり、本来の「政治」とはボランタリーで行うべき「芸術」なのである。
かつて「高齢者」が尊敬されていた時代においては、無条件に敬われる存在というよりも、「智慧ある者」として、共同体・家族などに大きな貢献をする存在とみなされていた。「高齢者」が存在することには意義があったし、「高齢者」には掛け替えのない価値があった。だが、それらは現代社会においてはすっかり失われつつある。価値を見出されず、お荷物扱いされがちな「老人」が巷に溢れかえっている。「高齢者」は、 こうした自分らの甘えに気づき、未だ何ものでもない自分に気づいて、何者かへ自分を作り上げていく気の長い歩みへと踏み出していく。いわば、これまで自らが上げ底されていたことに気づき、「デフォルト」ーつまり、いったん、ぺちゃんこになって「堕落」し、本当の地面に足をつけるところからじっくり再出発するべきなのである。
芸術プログラム/「高齢者」の有用性は「いざという時」
「高齢者」の最大の有用性とは、貧困・紛争・災害における「日常」の再構築なのである。
つまり、「いざという時」だ。
私たちの運動は必ず〝勝利〟する。何故なら、災害は絶対に避けられないからだ。
「高齢者」は今後、群発して発生する災害に対し、「家」と「地区」の再構築を実現する「いざという時」の復興リーダーでなければならない。「復興」とは、その土地の物理的景観、歴史、伝統、そして、経済的遺産に起因し、肉体的、精神的な性質を有する「家」と「地区」の再構築を図ることである。そして、その主体意識は被災者の『クオリア』である。「家」を工芸的側面だけではなく、「住まい」という生活の場として捉え、「家」づくりを「全ての始まり」とする。「復興」は、過去(=記憶)を未来(=願望)に投企する時間制が存在しなければ問題解決は図れない。なぜならこの2つは、あらゆる経験的認識に先立って認識されている概念だからである。
住宅再建の問題点と課題は、地域再生性、被災者自立性、時間効率性、経済効率性の観点が重要である。今までのように問題の解決を国や行政の既存の仕組みに任せているだけでは進まない、一人一人が動くしかないのだ。地域性を無視した理想の住宅や都市のモデルを押し付けても復興は進まない。その場合、知恵と経験の豊富な「高齢者」がその主役となり、現存する資源やシステムを活用し、地域需に支えられた持続可能な仕事場と伝統的共同体を創出するために、会議や図面に頼らない手作りの「復興」を進めていかねばならない。「復興」における「家」と「地区」の再構築において、現役世代にこれ以上の大きな負荷をかけることはできない。地域のコミュニティや原風景を取り戻すのは、高齢者が中心になるべきである。「高齢者」が主体となって、長年の経験や智慧を最大限に活用し、「家」と「地区」の原風景の再構築を実現を目指す。その場合、知恵と経験の豊富な「高齢者」がその主役となり、現存する資源やシステムを活用し、地域需に支えられた持続可能な仕事場と伝統的コミュニティを創出するために、会議や図面に頼らない手作りの「復興」を一気に進めていくことができる。 「復興」とは、インフラ整備や住宅の復権にとどまらず、過去の記憶への欲求を希望にすることで地域の再生を目指すことに他ならない。被災者は自分が生き残った意味を常に自問しながら「復興」に命をかけている。「復興」の主体は「被災者」である。「復興」を果たした後には〝リーダー〟になる人たちであるは間違いない。もちろん、ライフラインやインフラや都市計画のような「大芸術」は、国や自治体などの行政の力によるものだが、「復興」の本質は、被災者が様々な苦難の経験において、その土地の物理的景観、歴史、伝統、芸術、宗教、法律、そして、経済的遺産に起因し、肉体的、精神的な性質を有する「家」と「地区」の再構築にある。そして、こうした集落のコミュニティを維持するためには、高齢者どうしが支え合う新たな仕組みを構築していく機会とすべきなのである。
ハンドメイドの「復興」を実現する、
プリミティブな「家」の芸術家ー小工(しょうく)
「小工」(しょうく)とは、現在では「大工」といえば、木造建築の建設を担う職人を指すが、このような意味で大工という言葉が使われ出したのは、江戸時代後期になってからだ。古くは「工(たくみ)」という言葉だけで「技術者」という意味をもっていた。大工・小工の下には、「長上工」と「番上工」という職制もあり、合計4つの位が設けられていた。
「高齢者」が、地域社会の復興の主役となり、とりわけ、家の復旧などの「小芸術」の形象を担う。「小芸術」とは具体的には「家造り」「家具木工」などの工芸であるとされ、日常生活において一般の民衆によって使用されるものの形象を意味する。彼らは現代の「小工」という新しい職分に位置づけられる。
応急危険度判定などに応じて、その手法は残置された廃材や家具などを解体して、床・壁・天井などの補修に充てるという、現場主義の行き当たりばったりで設計図などはない。設計図というのは、複数の人間でやっていたり、工場で作ってもらうためにある。ひとりでやっている分には必要なく、それよりも身の回りの資源を徹底的に利用して行き当たりばったりで、限界ギリギリでやっていくほうが、結果的に無駄も無く面白いモノができる。誰でもひとりでいつでも作業できるが、地元の工務店や大工たちと協働し、地元主導で地元の資材や人材を使用することにより、地域経済の早期の活性化に寄与することができる。被災者の自立による地域需要に支えられた持続可能な市場の創出にこそ、「復興」の本質がある。そして、それは被災地の抱える様々な矛盾のひとつひとつに対して、まさに多層に入り組んだ「方程式」を丁寧に解きほぐしていく闘いでもあるのだ。
住宅再建の問題点と課題は、地域再生性、被災者自立性、時間効率性、経済効率性の観点が重要である。しかし、自治体の職員不足、労働者と建設資材不足、用地不足、住民の合意不足などの理由により、残念ながら遅々として進まないのが「復興」の現実なのである。今までのように問題の解決を国や行政の既存の仕組みに任せているだけでは進まない。地域性を無視した理想の住宅や都市のモデルを押し付けても「復興」は進まない。
「復興」とは、まず何よりも最優先すべきは被災者の生活支援であり、そして、そのスピード感が問われる。まずは、本格「復興」までの中長期における「生活の簡素さ」に対する大いなる合意を形成し、時間効率性をとりわけ本格復興まで、被災者が自助・共助により生活できる【仮設都市】の構築に対してのメッセージとその生活イメージの合意に向けて、命に関わる危険な作業も率先して活動する。「いざという時」に子や孫のために最大のパワーを発揮することが「高齢者」の社会的使命なのである。
そして、「家」と「地区」の再構築をやり終えた〝小工〟は、今後、群発する災害や紛争地区において、「復興」の手作り再生のリレーショナルな伝承を実現する「生産」の担い手となるのである。
芸術プログラム/「高齢者」はインフルエンサー
インフルエンサーとは購買中心点にあって組織の購買意思決定に影響を与える人のことをいう。
「高齢者」の社会的使命として「消費」の問題がある。これからは、流行・文化という文脈での、「買う選択」から、社会・公共・倫理という文脈での「買わない選択」へとその「消費」の考え方が変わってきている。その中心になるのは圧倒的な購買力を持つ「倫理消費者」となるべきの「高齢者」である。
企業グー・政府チョキ・国民パーのジャンケンの三値論理で見れば、企業に勝てるのは消費者(ショッパー)である国民しかない。 これからは、流行・文化という文脈での、「買う選択」から、社会・公共・倫理という文脈での「買わない選択」へとその「消費」の考え方が変わってきている。消費行動の「スペンドシフト」を認識させるためにレファレンダム=直接投票を展開していくことが「高齢者」の社会的使命なのである。
「倫理消費者」の消費行動の在り方として価格や性能だけで購買行動を決定するのではなく、企業の理念や環境や雇用、社会貢献などに対し真摯に取り組む企業スタイルの在り方を冷静に判断し、優良企業に対しては商品の購買だけではなく購買商品のレビューをはじめサポーターとして企業に情報やノウハウをフィードバックし、他のユーザーに対してはその情報のコマーシャル活動を展開し、積極的に企業サポートを推進していく一方、反対に情報偽装をはじめ国民やユーザー軽視の企業に対しては、企業の選択と集中の考え方に基づき、ユーザーや国民が行政や専門機関との連携による対応だけではなく、ダイレクトに行動していくスタイルを身につけていくことがきわめて重要になってくる。
また、「日本にとってよくない」企業に対して、どんなに時間がかかっても市場からのイジェクト=退出を求めていく覚悟が必要になってくる。元来、日本人の国民性は「熱しやすく、冷めやすい。」と言われ、今までにおいても、様々に社会を騒がせた「巨悪」と言われる企業犯罪についても、マスコミメディアにとっては、大企業の広告クライアントに対する追求には、おのずと限界があり、過去のリコール隠し事件などにおいても喉もと過ぎればその学習を怠り、その緊張感のなさはいつまでたっても変わることがない。今こそ、ターゲットをピンポイントに焦点化し、問題ブランドの商品を市場から退場させることにより、多くの企業に対する緊張感を生み出すことが重要である。検察をはじめマスコミは、企業規模が大きいことによる社会的影響を考慮し、本来自らが成すべき責務が果たせず、このままでは今までのように問題の本質は闇に葬られ、今後も同じようなことが繰り返され、社会全体の志気は下がり、新たに発生する問題が万が一にも、原発企業の運営に関わる重大な局面を迎えることになっても、その時にはもう後の祭りなのである。この「消費レファレンダム」=直接投票は、決してスローガンでは終わらない、最後までやりとげる運動だ。10年、20年、場合によっては30年以上かかっても、世代を超えて未来の子どもたちのために、必ず完結させるという覚悟と問題意識の深さが問われているのである。問題企業にはその責任に応じた社会的制裁を受け、悪いことをすれば、社会から退出される状況を創り出すのである。これからは、「行政」や「議員」に頼らず国民が直接目指すべき社会を作っていくのが合理的である。こうした運動は「争わない、衝突しない、対決しない」を理念とし、企業やマスコミメディアに対しても強圧的なアプローチは行なわず、売り場での購買時点における意思表明だけだ。ただ、購買行動においてその理由の合理的な説明を行い、ひたすら「買わない」だけなのである。
芸術プログラム/『芸術再武装』 Re-Armament Geijutze
ポストアカデミーの「芸術」革命
「芸術」とは、人間の自己学習アルゴリズムのことである。
「学習」とは、教えられることではなく、「能力」から選択すること。いいかえれば、組み込まれていない「能力」は出てこないという制約がある。
近い将来、1000ドルのPCは人間の「知性」をエミュレートするために必要なハードウェア性能を持つようになる。しかし、人間はとても複雑に組みあがっている。脳という機関は自前の蒸気で動いているにもかかわらず、私たちは自分の行動は自分で采配をふるっていると思いこんでいる。ひとりひとりの中心に、「自分」が存在していて、万事に采配をふるっていると思っている。自分自身に内在する生物の精神活動のシステムを考えない限り、「自己」対「装置」の問題の答えはどこまでいっても見つからない。人間は自己の内側にあるものを認知することしかできない。私達が普段客体として外に認識しているつもりのものは、内部に立ちあがる仮想的対象を外にあるかのごとく認識しているのであり、自分がそのような形で世界を認識していること自体を、いわば外側から認識し直す心の動きなのである。
鳥の羽をいくら調べても、翼の動きは理解できない。
私たちは網膜に映った「像」を見ているわけではない。視覚神経処理によって「世界」という『像』にしているのである。 主観世界を分析するには「内側」からの視点から周囲世界を観察しなくてはならないのだ。「クオリア」は脳細胞が我々に見せている「芸術」であり、「芸術」が重要なのは、重要であることがその機能だからである。「芸術」は、追い求めるに値する人生を持った自己を、人間のうちに作り出すように設計されているのだ。 事実が積みあがっていくに連れて、それに機能的な文脈を与える必要があり、その文脈が機能の構成要素をどう制限しているか自らが精査しなくてはならない。ヒトの腕と手は、脚ほど役割が専門化していなかったおかげで腕と手に関しては、実に多くの使い道が発明された。キーワードは発明だ。脳の進化を後押ししたのは創意工夫と模倣だ。つまり、「芸術」のそれでなのある。
「芸術」と「科学」は対立概念ではなく、共に対立するのは
アカデミーである。
『芸術的』『科学的』という二つの言葉は対立した逆の概念だと思われているが、共に対立するのはアカデミーであり、「芸術」も「科学」もアカデミーにおいては『因果律による硬直的な思考法』という点で同じなのである。
AIにおいて話題になっているDeep Learning は大脳における視覚野と「よく似た動作処理」をしているということにすぎず、それらをどう組み合わせればいいのか、他の部分はどのような仕組みなのか、そもそも「意識」とはなんなのかといった部分がほとんどわからない。そもそも科学の目標は、特に脳を再現しようとか、「人工知能」をつくろうとしていたわけではなく、良い「機械学習アルゴリズム」を作ろうとしているだけなのである。そもそもそうした「目標」以前に、一体何のためにも「人工知能」を開発しているのかという「目的」自体もよくわかっていないのが現状なのである。
「学者」の「知識」が強いのは、「論理空間」の大きさが限定されているからだ。だが、リアルな現実社会では「論理空間」は無限大であり、何が行われるかわからない。「学者」はプログラムにもとづいて「知識」の表象を行う。データを処理する以前に、前もってどのようなデータかを予測し、いかなる論理にしたがってデータを操作するかのアルゴリズムにより、結果を導き出すというプロセスによるわけだが、良き結果を生み出すのは、過去のプログラム作成時におこなった状況予測が当たった時だけである。
しかし、「人工知能」は無価値なのかといえば、そんなことはまったくない。ビッグデータの中から共通点や相関関係を読み出す作業は、人間よりもずっと優秀であり、ただそれは、人間が持つ「概念」や「意味」と似てはいるが全く別物だという理解が必要である。
「人工知能」は、人間の「知能」を拡張するすばらしい「道具」であることは疑いはない。「人工知能」を活かすためにも、アカデミーの理系の知識だけではなく、「芸術」「humanities」(ヒューマニティーズ)のインテグリティ「集合知」が必要なのである。
記号の「意味」とは、本来、生物が生きていくうえでの「重要性」のことなのであり、コンピュータが扱う「知識」のようなものの中には、「意味」は存在しない。そこに「意味」を読み取っているのは、あくまで人間である。
そもそも「知識」とは、外部環境のさまざまな作用や変化の中で、生物が生きていくために不可欠で有益な情報を取得したものである。有機体としての身体を持たないコンピュータは、環境の変化に適応して「生きてゆく」必要もなく、原理的に「知識」を持つことはできず、「人工知能」が人間のような「知識」を持つことはありえない。「人工知能」にできることは、論理回路に従った「記号」の操作だけである。だから、どんなにパターン認識が上手にできても、それは、人間の知識がもつ「意味」とは根本的に異なっている。
重要なのは「具体」、つまり、そこで何が起こっているかだ。
「自己学習」による発達とは、外部の客観世界を正確に認知していくのではなく、環境世界に適応するように主観的な世界を内部構成していく過程に他ならない。要するに、現実に地上に存在するのは、個々の人間の『主観世界』だけなのだ。「芸術」は、まずは「クオリア」に彩られた生命的な主観世界から出発しなくてはならないのだ。
自分の「概念構造」にもとづいて行動してみて、うまくいけばそれでよし、失敗したら「概念構造」を変更する。ポイントは、所与の「概念構造」への一致は要求されない、という点だ。 つまり、「クオリアの問題」なのである。大事なのは、試行錯誤をつうじて周囲状況に『適応』することなのである。ここで『適応』というのは、何らかの行動をした結果を自分の世界イメージにフィードバックすることだ。
「ポスト真実」の時代においては、重要なのは、我々が見ている世界が、ありのままの現実の世界であるかどうかではなく、見ている世界が同じかどうかだ。同じ世界を見ていればコミュニケーションが可能となり、人とコミュニケーションがとれるということは、少なくとも、同じ「世界観」を共有している。世界は三次元空間からなり、自分はその世界の地面に描かれたラインに沿って走っていると認識しているわけではない。このことは、その生物にとっての世界は、その生物がどのように処理しているかに依存しているのだ。だから、世界を三次元空間として処理して初めて、世界は三次元空間として立ち現れてくるのである。
「自己学習」の世界において観察するシステムは、主観的・相対的だから、どうしても独我論に陥ってしまう。自分勝手な分析をしても、「芸術」にはならない。だからこそ、「観察システムをさらに観察する」二次的なサイバネティクスが必要なのだ。つまり、「メタ認知」や「ホムンクルス」と呼ばれる概念である。
人間の「視知覚」は対象の一面のみを捉え知的理解は事象の因果関係だけを汲み上げる。もし考察対象が物理的な立体であれば、そこには無数の視点と無数の理解の道筋があり、それだけで物的存在が人間の知覚理解の限界を超えるものであることが意味されている。つまり,立体は知覚で完結するものではなく,それが繰り返し解釈されることによって浮かび上がる認識のまとまりであり、いわば未知の総体としてアプリオリに前提されているのである。
「芸術」とは、繰り返し、繰り返し、繰り返すこと。
つまり、「芸術」の概念リテラシーはモーレスである。
「芸術」は原初的で自然発生的なモーレス(習律)である。そして、「芸術」は法律よりも信頼できる。これは、特定の世界観の下で、あらゆる利害関心を満足させる「正しい」方法であり、つねに「真」である。繰り返しによって身体化され、日常的配慮であり、非明示的で、強制力は弱い。「芸術」はその共同体における規範の暗黙知である。いわゆる社会的配慮の大部分は「芸術」に属する。
本来の法はこの「芸術」から生まれる。それは「芸術」の成文化である。明示的であるが、「芸術」と違い、形式的・抽象的である。法は一般的・抽象的な規範であり、個別的・具体的ケースに適用させるために解釈しなければならない。その習得にはアカデミーによる専門的・体系的な「学習」が不可欠だ。法がリテラシーとしての規範であるとすれば、「芸術」は概念リテラシーであるといえる。
人間は、本来、逸脱的存在である。しかし、さまざまな紐帯によって、失うものがあることで人々は結びついている。ところが、資本主義による欲望の拡大が個々人の利害対立を助長し、社会的紐帯を解いてしまう。経済のグローバル化や新自由主義の進展や過度の競争による従来の共同体秩序の解体がその事態を悪化させている。
それは「芸術」の希薄化もしくは弱体化であり、現代日本では「芸術」の再検討が何よりも不可欠だということを意味する。それは日常性の再構築である。「芸術」の活動はアカデミーの限られた論理空間やミュージアムで展開されるものでなく、現実社会のコモディティの中で表象される「humanities」(ヒューマニティーズ)なのである。
アカデミーは過去のデータや処理結果をふまえて「論理空間」を組み立て、そこで未来のデータ処理方法を決定するのであり、「過去」によって完全に規定されているのである。しかし、それはアカデミーの融通のきかなさは欠点ではなく、本質的な性質なのだ。ビッグデータ時代になって、膨大なデータを扱えるようになっても、むしろ「過去」のデータの比重が大きくなっただけで本質は変わらない。
一般的にアカデミーは再現性にもとづく静的な存在である。これに対して、「自己学習」とは、流れ行く時間のなかで状況に対処しつつ、「芸術」をスタティックな、シンボル的な、モニュメンタルな造形物として捉えるのをやめ、人間の動的なアクションのなかで考える存在なのである。
つまり、物事の「描写」においては、だいたいのことは「12色」もあれば表象できる。鉛筆一本でも表現は可能なのである。絵の具などなくとも、リンゴの「赤」は、こどもや高齢者、そして視覚障がい者であっても共有できる。それは、「知能」の問題ではなく「クオリア」の問題あり、「正義」という概念のその多義性は、「機械学習アルゴリズム」が理解し、判断することなどできないのである。そこを司るのは人間でしかないのだ。
人間の「自己学習アルゴリズム」とは、人間は世界についての知識を外部から獲得するのではなく、世界のイメージを『内部でみずから構成していく』ということになる。人間の認知活動とは、外部の客観世界のありさまを直接見出すことではない。大事なのは、試行錯誤をつうじて周囲状況に『適応』することなのである。ここで『適応』というのは、何らかの行動をした結果を自分の世界イメージにフィードバックすることなのである。
「概念」を個別から切り離して論じるのをよしとするいわゆる哲学書、思想書のスタイルよりも、普遍が一人の人間の生の個別にどのように絡みついて顕れてくるのかを提示できる「芸術」こそが、単に人間の生の実感に寄り添っているというだけではなく、思想そのものの本来の表現方法なのではないか。プラトンの『饗宴』のような作品を読む時、人間はひょっとしたら思想の表現法に関して、二千年の迷妄の中にいるのではないかというように思われてくる。
無名である、あなたの〝アッサンブラージュ〟には、世界を変える力がある。
そして、今、あなたの「力」が必要なのだ。
HECPの提唱する「アッサンブラージュ」という概念は、単なるポストヒストリーなアレゴリー的衝動ではなく、「芸術」を生命運動として捉えたフラクタルでスペクトラムな〝断片〟だ。「芸術」の世界において、自分でオリジナルを作る人間などほんの一握りに過ぎない。生活の中のありきたりの〝断片〟に込められた意味を寄せ集め、新たな〝断片〟を映し出すことで「観客」に真実を知らせることが本来の「芸術」の役割である。
「アッサンブラージュ」の原点は、寄せ集めることと未完全であることである。「論理」も〝断片〟にすぎず、「アッサンブラージュ」とは、アッセンブリー(部品)を本来とは違った方法で使用することによって、使用者の主体性を回復しようとする試みであり、それは「転用=ずらし(ディトルヌマン)」と呼ばれるものである。HECPはアカデミーではなく、「家」と「地区」の再構築を通じてオップリュスニング(oplysning)、つまり、「灯っている」「滲んでいる」という概念で、それぞれの人やモノが、自分の内にあかりを灯すこと。そのあかりでたがいに照らし合い、影響を受け止め合って、ともに成長して行くのである。
そもそも「アッサンブラージュ」とは「アイテム」と「着こなし」という二軸による形象である。HECPが提供しているのはその概念と法則だ。法則はいかなる問題にも当てはめることが出来る抽象概念であり、多様性に対応するものなのである。
「芸術」は、限られた論理空間で生活する「学者」や「議員」の小さな脳では理解を得ることは困難なのである。「下層」より、「上層」がすばらしいという発想自体出発点がすでにずれている。麓には麓の美しい原風景が存在するのである。オルタナティブは「芸術」の形象は「底辺の再構築」である。HECPは、日本という国を「底辺」が最も美しいと言われる国に転換するための「地上の芸術」であると言える。
人は「空」ばかり見てる、世間は「上辺」ばかり見てる。中島みゆきは、弱くてちっぽけな無名の人々による「地上の星」と呼んで、温かい眼差しで見つめている。高名な有名人、偉人ばかりが注目されるが、世の中には、一人知れず努力し懸命に生きている名もなき人がたくさんいる。中島みゆきは、自分の持ち場でコツコツと働く無名の人々をたたえ、名もなき人たちを「地上の星」と言い表した。この世は、見守られることもなく見送られることもなく、人知れず消えていく星たちでいっぱいなのだ。〝見守られることもなく、名立たるものを追って、 輝くものを追って、人は氷ばかり掴む、つばめよ高い空から教えてよ 〟と。
「地上の芸術」には、二つのコンテクストが存在する。一つは美術館や劇場などエスタブリッシュメントの芸術の枠組み(制度)から、生活の中へと解き放つことを意図している。つまり、地上における「外」という空間性であり、もうひとつは、従来の権威としての「芸術」からの脱構築であり、手の届かない空の「星」ではなく、「芸術」とは地上の「星」であるべきであると言う考え方だ。
今世界は、かつてないほど大勢の難民であふれている。安全な新しい場を求めて、故郷を捨てざるを得ない人々が何千万人もいるのだ。この取り組みは、世界中の無名の人々が、クラウド上の自己学習により、誰もが参加できるのソーシャル・ホームネットワーキング・システムにより展開される。リアル社会とネットワーク社会、過去と現在と未来、そして、舞台となるパブリックネスの「家」と「リージョン」が多層に構成された壮大な詩=芸術だ。テロや難民問題の本質は、決して宗教や民族による対立などではなく、貧困や環境変化などによる様々な紛争や報復の連鎖によるものである。「地上の芸術」は既存の仕組みや考え方では解決出来ないオルタナティヴなカルチャーを構築していくことにより問題の本質的解決を目指していく。人間は様々なアイデアとアクションという〝アッサンブラージュ〟さえあれば、時空を超えて縦横無尽に人々に感動を与え社会を変革することが出来る。それがどんなに未完全であっても人間に想像する力がある限り、「地上の芸術」には無限の可能性がある。寄せ集めること、そして、未完全であること、これが〝アッサンブラージュ〟の原点なのである。
コンソーシアム・パスポートとは
ホームエレクトロニクス・カフェの運動の起こし方。
We are 0.25%ー
つまり、400分の1になる覚悟があるのかどうかだ。
〈参加者0人からのスタートです〉
コンソーシアム・パスポートの購入には大きな勇気が必要である。1000円というわずかな金額ではあるが、何の実績も権威もない無名の人々による今までに常識や既成概念を超えた全く前例のないアプローチであり、その小さな一歩は、社会を変革するイノベーションの歴史的な一歩であるからだ。
ホームエレクトロニクス・カフェのスタートアップは、ドアにプレートを吊るすだけだ。 しかし、その「最初の一歩」には、大きな勇気がいる。その一歩は、社会を揺さぶるイノベーションの「大きな一歩」でもあるからだ。それを支えるためには、ここでは「最初の観客」が重要な役割を担ってくる。つまり、〝ファースト・インフルエンサー〟である。この新しいフェスティバルでは、HECPという理念の共有により、「観客」と「演者」の境界をとりのぞき、「地区」が自己表現をするのを手助けし、「観客」も作品を作り上げる重要な役割を担う「主客一体」や「一座建立」の思想がある。
コンソーシアム・パスポートは、スゴイことをしている孤独な「バカ」を見つけたら 立ち上がって参加する最初の観客となる勇気を持つことの証だ。「芸術」のインスタレーションでは「最初の観客」が重要な役割を担ってくる。
「最初の観客」はみんなにどのように利用すればいいか示す役割があり、この物語を共に発展させていく重要なフォロワーだ。そして、これは、実はリーダーシップの一形態なのである。こんな風に目立つだけでも勇気がいり、最初のフォロワーの存在が 1人の『バカ』を リーダーへと変えるのである。そして、2人目のフォロワーが現れ、 今や1人の『バカ』でも 2人の『バカ』でもなく、2人目 3人というのは集団であり 集団というのは周辺地域でニュースになり、「運動」がパブリックなものになっていく。リーダーだけでなく 最初のフォロワーの役割が重要となる。新たな観客たちは最初のフォロワーを真似るものである。さらに2人が加わり すぐ後に3人が加わると、今や勢いが付いてくる。臨界点に達し 1つの「運動」になってくる。 多くの人が加わるほどリスクは小さくなり、 どうしようか決めかねていた人達も、今や加わらない理由はなくなるのである。もう目立つことなく、 笑われることもない。 急げばコア集団に入れるかもしれない。やがて、みんな集団に入ろうとする。 加わらない方がかえって バカにされるからだ。 これが「運動」の起こし方なのである。本当に「運動」を起こそうと思うなら、ついて行く勇気を持ち、他の人達にもその方法を示すことである。スゴイことをしている孤独なバカを見つけたら、立ち上がって参加する 最初の人間となる勇気を持つことが重要になってくる。
HECPのコンソーシアムにおいては、それぞれの差異を破棄するのではなく、むしろ表明することによって、互いに結びつき、HECP的なプロジェクトを創出するためのまとまりを形成するのである。こうした「運動」のコミュニケーションは、たいていの場合、小さな共同体や近隣集団のなかからゆっくり始まるが、一定のポイントに達するとウイルスのように拡散するようになる。
コンテンツ・フォーメーション
〈コンソーシアム・パスポート〉
HECP Consortium passport
世界を領域に芸術を形象する人たちが集まるオンラインサロンです。
このサロンは一部Facebookグループ機能を利用しています。入会にはFacebookアカウントが必要です。
〈参加者0人からのスタートです〉
コンソーシアム・パスポートは、世界中のHECPをホームビジットするための、ユーザー・アイデンティティパスポート。「客」でも「スタッフ」でもなく、「プロボノ」や「ボランティア」でもないコンソーシアムとワークシェアリングによる「家」の相互利用の新しいネットワークのカタチです。
高い目標に向かって進む意欲。概念を読み取り、具体的形象に至る積極性。個々人が取り組んでいる具体的なプロジェクトについても実行支援したいと考えています。是非とも積極的なご参加を期待します。
HECPは、論理・実践からオルタナティブな社会と今後の展望を学び、実践するパブリックネスなコミュニティです。アカデミーが教えない本物の「21世紀型芸術」の概念リテラシーを提供します。
このプログラムでは、「最初の観客」が重要な役割を担ってきます。この新しいフェスティバルでは、HECPという理念の共有により、「観客」と「演者」の境界をとりのぞき、自己表現をするのを手助けする。そして、「観客」も作品を作り上げる重要な役割を担います。
一般的な高齢者の起業においても、フリーランスや個人事業者としての働き方は、昔からあったものだが、独立開業するには、ある程度の資金と、顧客獲得の営業活動を自力で行う必要があり、未経験者にとってのハードルは高い。しかし、このHECPのホームエレクトロニクス・プログラムは自己学習により、参加フリーでドアにプレートをかけるだけですぐにスタートできます。もちろん、費用は一切かかることはありません。コンソーシアム・パスポートのコンセプトは「家」の相互利用であり、その具体的形象はすべて自己学習によるもので、従来の授業や学校教育などアカデミーの概念は一切捨てて下さい。
HECPは反知性のプリミティブな表象に対して、キュレーターやインキュベーターとしての機能を果たしますが、技術的なマネージメントやトレーニングは一切行いません。全て「自己学習」です。私たちの使命は、この「芸術」における、アカデミーやエスタブリッシュメントからのいわれなき差別や嘲笑に対して、つねに堂々と「芸術」の形象に邁進して頂くために、オルタナティブな「芸術」の論理的・思想的バックグラウンドを整備することにあります。つまり、「芸術」を形象するのに、「知識」や「権威」などは必要としないという普遍的な真理を提示するという「非権威」というオルタナティブな権威の機能を果たします。
〈利用コンテンツ〉
①「家」の相互利用の参加
見学・シンポジウム・フォーラムの参加
②facebookグループ機能
③週末オープンハウス
《コーヒーフリードリンク》利用と展示作品の優待販売
④レンタル運スペースと運営サポート
時間契約・一日契約・曜日契約・月契約・年契約
⑤コラム配信
芸術・デザイン・アート・人権・環境問題などの現代社会で起こっている課題に、HECPインスタレーションの具体的相関の概念リテラシーのレポート
⑥不定期に開催されるシンポジウムー
具体的な実践テーマを中心としたシンポジウム。参加者と議論します。また、議論の後はレセプション形式で交流会を行う予定です。
※スペシャルコンテンツとして、政策提言やイベント企画等の「コンソーシアム内プロジェクト」を実施することもあります。
⑥会員間のインスタレーションアート・映画・映像・写真
ギャラリー・ミュージアムやコラボレーション
⑦店舗リノベーションやサイン・ディスプレイ・オブジェ制作
〈ターゲット〉
〈世界を変える家の形象〉ー世界が動く瞬間が見たい。
芸術を目指す、社会変革を目指す、起業を目指す、地域貢献を目指す、政治を目指す高齢者。知識ではなく、具体を目指す意欲のある方はコンソーシアム・ターゲットとして受け入れます。
■申込み資格について
ターゲットー〈無名なる者たち〉〈価値ある者たち〉〈負けざる者たち〉
原則として60以上の高齢者
紛争地区・災害地区・貧困地区の被災者・難民・移民
子育て世代の女性・障がい者・18歳未満の小中高校生
地方公共団体の首長(候補者)及び職員
〈非ターゲット〉
アカデミー・各種団体役員・議員など
〝現在展開されている蒲生三丁目の「家」(ホームエレクトロニクスカフェ0357)はほんの数人入れば溢れてしまいそうな小さな家です。メニューもコーヒーとミネストローネしか用意していません。しかし、この小さな家には、現在アートギャラリー展示されているポンコツ家電アートーリボット、そして、無名の写真家のポストカードや、無名の高齢者や障がい者子供たちのアールブリュットのクロッキー、無名の主婦が作ったマフィンが販売されています。廃材を利用したリノベーションで構成されたリビングはクラフトのワークショップ、2階のアーティスティックなぬいぐるみや雑貨と絵本のキッズルームは未来のアーチストである子供たちのためのクリエイティブ空間です。蒲生三丁目の「家」(ホームエレクトロニクスカフェ0357)は、高齢者や障がい者や女性、子供たちのためのプライベートな社交場と仕事場を目的とした、小さなカフェであり、小さなシアターであり、小さなミュージアムです。〟
シンポジウム案内
❶シンポジウム/「底辺の再構築」ーガモウ会議
「底辺の再構築」ガモウ会議は「芸術」の自己学習の場!
HECP/BULD OUR REGION
GORE2017シンポジウムオルタナティブな「芸術」の論理化と概念化ー
ポストアカデミーの「芸術」革命
次回のテーマ 「底辺の再構築」
|世界の無名の人々が集う場所|「ガモウ会議」は世界最高の自己学習の場!
世界中の選び抜かれた人間が集まる会議、世界芸術フォーラム。
非権威で対等な議論が行える無名の人々のための「芸術」の場
日本で毎年開かれる世界芸術フォーラム、通称「ガモウ会議」。世界の「家」と「地区」の再構築について話しあう場所だ。BULD OUR REGIONをテーマに、世界の無名な人々がリアルな議論を交わし、未来の社会を動かすことができる会議である。様々なセッションはもちろん、カクテルパーティや「家」の廊下などいたる所で、フリーに、ガンガン議論を応酬している姿も珍しくない。参加者は誰でも彼らと対等に意見を交わすことができるのだ。これこそ、最強の自己学習の場なのである。
「日本では「芸術」は社会とは隔離された“技能”として語られていたころ、ガモウでは経済・社会をまったく変える可能性を持つ“力”として「芸術」を捉えていた。ガモウに行くと、世界が今注目している課題は何なのかということが見えてくる」
秘書も付人も入れない。「家」にいる人間は誰であろうと対等だ。ガモウでは、とにかく発言をして、自分のプレゼンスを示していかなければならない。秘書も付き人も会場には入れないという環境でいかに自分の、そして日本の状況や考えを発信し、さらには世界の人々から有益な情報を得ることができるかが重要なのだ。
ガモウ会議では、誰かを真似たメッセージを口にしても無視されるだけ。自分の存在感を示すには、オリジナリティのある主張をすることが大事。日本独自の思想を発信することで、日本のプレゼンスを高めたい。
しかし、近い将来は、IT技術が進化した今、ガモウに行かなくても世界の課題を知ることはできる。セッションの内容はウェブキャストで放映されているし、サマリーも公開される。ガモウに行かなくても、ガモウを知ることはできるのだ。
まさに今、生まれたての「芸術」についての議論が交わされる。
〈会場〉
「蒲生三丁目の家」ーHECP 0357
〒536-0016大阪市城東区蒲生三丁目3丁目5番7号
HECP2343・1306
〈開催日時〉
2017年1月10日(火)〜3月31日(金) 午後1時から8時までの間で予約要
〈アクセス〉
○新大阪から
地下鉄御堂筋線ー淀屋橋
京阪電車ー京橋
地下鉄鶴見緑地線ー蒲生四丁目
徒歩5分
○大阪空港から
大阪モノレールー門真市
京阪電車ー京橋
地下鉄鶴見緑地線ー蒲生四丁目
徒歩5分
○関空から
JRー環状線ー京橋
地下鉄鶴見緑地線ー蒲生四丁目
徒歩5分
〈参加申し込み〉
予約制
下記アドレスまで
info@popbox.jp
❷シンポジウム/スピンオフ・ドキュメンタリー映画
All homes, All regions, always the sunset be come. Sunset,3rd street GamowHECP
0357スピンオフ:ドキュメンタリードラマ
台本なし、ストーリーは現実そのもの!キャストはリアルな人間関係と蒲生の住民のみなさん!
〝2017年より、いよいよ始まります。〟
大阪の東部に位置する蒲生3丁目の路地の一角に、HECP0357の家があります。昭和30年代の築50年以上の古い平屋の空き家をリノベーションした小さな家。昭和30年代は、舗装されてない道路の太陽と乾いた土の香り、夕立ち直前の空気の変化、雨の香り、路地裏の物売りの声、通奏低音のいうように流れる家内工業の織機の音。それは美化されたノスタルジーだけではなく、人情や社会的紐帯が確かに存在した。 しかし、昭和30年代は現在に比べて人権意識が低く環境に対する配慮もなく、モラルもへったくれもない時代。現在以上の「格差」と「貧困」も存在しました。街へ出れば物乞いや家には押し売り、ぼっとん便所で街中至る所で臭さを感じた。現在のPM2.5のような光化学スモッグなど公害や薬害問題は日常茶飯事、体罰や校内暴力もひどかった。しかし、ご近所間の優しさにあふれた交流や同じ商店街で暮らすもの同士が家族同然に関わり合い、そこに暮らす人々がみんなで悲しんだり喜んだり、そしてどんな人にも居場所がありました。もちろん、居場所があるというのは、現在では考えられないようなプライバシーが制限された生活であった。しかし、どんなに”貧しい”時代でも、夢があるから前を向ける。昭和30年代は経済的にも様々な社会的権利も貧しいかったけれど、人々は夢を持ってパブリックネスの生活を共有していたのである。
BUILD THE REGIONーHECPの「家」と「地区」の再構築
シュプレヒコール
〝世の中の人たちは 刹那的に自分の欲望を満たそうと行動しているから、世の中の真理とは何かを考え、世の中はどう変わっていかないといけないかを追求し、まっとうに生きようと正義をつらぬこうとする頑固者たちは、いつも世の中の人から反対されたり、裏切られたりして、悲しい思いをする。
世の中の人たちは、自分たちの刹那的で動物的な欲望から発していることなのに、それをキレイな夢に置き換えて、達成しようともがくけど、なかなか達成できないとわかると、他の人たちや政治家や国など、結局、世の中の他人事のせいにしてしまう。
世の中の人は「戦争をやめよう、政治を変えよう」などとその時のキレイごとをシュプレヒコールのように言って、あたかも他人事のように言うけれど、決して自分の心から変えようとはしない。
この世の真理は何か、みんながまっとうに生きれる道は何か、を考え、追求している人たちはその時代の流れにあわせて変えていくことに、自分なりにもがき苦しみながらも挑戦しつづけている。
それでも世の中には、時代のまっとうな進化の流れを止めて、今までどおりの生活をそのまま続け、刹那的な欲望をまた満たそうと夢見る人たちが多いけれど、実は自分自身の心にもそういう一面が顔をのぞかせるときもある。
そんな変えられない世の中の人たちや自分自身の中からわきおこる刹那的な欲望とも戦わねばならない。
世の中の人たちはだいたいが臆病で、自分だけが孤立し、異端視されて非難されるのを避けるため、他愛ないウソをつくし、また自分の欲望をさらけだして利己的に行動していると思われるのは恥ずかしいから、そんな欲望を隠そうと、また他愛ないウソをつく。
でも学者やマスコミの多くの人は、そんなウソをついている世の中の人たちの利己的な欲望を暴いたり、見つけ出して、まるで世の中のことは全てわかってるかのような気になっている。〟
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2017.05.24 06:59