テロリズムとはある意味で「善悪の彼岸」に咲く
「反芸術の芸術」であると言える。
『われわれをしていたずらに恍惚たらしめる静的美は、もはやわれわれとは没交渉である。われわれはエクスタシイと同時にアンツウジアスムを生ぜしめる動的美に憧れたい。われわれの要求生の拡充の中に生の至上の美を見る僕は、この反逆とこの破壊との中にのみ、今日生の至上の美を見る。征服の事実がその頂上に達した今日においては、階調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。階調は偽りである。真はただ乱調にある。 今や生の拡充はただ反逆によってのみ達せられる。新生活の創造、新社会の創造はただ反逆によるのみである。』
大杉栄 「 生の拡充」
テロリズムやファシズムは政治の耽美主義化に行き着く。政治を耽美主義化するためにテロや戦争が存在する。テロリズムは、「芸術」の反乱であり、「芸術」の要求に対して社会が自然の資源を与えなくなったので、「芸術」はその要求をいまや「人間」に向けているのである。「芸術」をスタティックな、シンボル的な、モニュメンタルな造形物として捉えるのをやめ、人間の動的なアクションのなかで考えようとするならば、テロリズムの構造は、「芸術」の考え方にとって極めて示唆的であるように思われてくるのだ。
テロリズムとはある意味で「善悪の彼岸」に咲く「反芸術の芸術」であると言える。正義、悪、道徳、反道徳、これらを全て包摂することなしに、テロリズムが開花することはありえない。テロリズムの「芸術」、それは(飢餓、孤独、貧困、格差、差別、紛争、災害などによる人間の苦しみ)からではないか。素質や学習といった後ろ盾で支えられていない、何も無いところからテロリズムの「芸術」が生まれるためには表層的な知識や訓練などではなく、心の奥から、特別な想念を汲み上げる必要なのである。テロリズムの「芸術」とは、ひとの生から絶対なくすことのできない負の宿命と、たった一人で拮抗するためにこそ存在する。それこそ「芸術」の最も根源的な姿なのではあるまいか。逆に言えば、そのような苦しみと直面しない者にとって、「芸術」はなんら必要ではない。紙幣と娯楽で充分なのである。「芸術」を政治や経済、生活や文化といった社会活動と同列に語ることは出来ない。しかし、「テロの温床は貧困だ」と断定してしまうのはあまりにも短絡で乱暴な結論だ。問題はもっと複雑である。社会的な不正に対する感覚、正義感や使命感というのは、貧富の差に関係なくある。また、テロリズムというのは、絶対的な強者に対して追いつめられた絶対的な弱者が異議申し立てをするための、仕方なしの手段ではないのか。それ以上にイスラムをつきつめていったら、ああなったのではなくて、まず異議申し立ての思いがあって、ツールとしてイスラムしかなかったのではないのか。危険回避のために仕方なくクラクションを鳴らしたのか、普段のストレスの蓄積により、実はクラクションを鳴らすきっかけを探していたのか自分自身でも測れない深層における心理は複雑に混在しているのである。
自爆テロなどの行為は「殉教」と名付けて救わなければやりきれない。そこに国家というものが大きな存在としてあれば、「殉国」、民族のためであれば、「殉民族」だが既存の国家やアラブ民族といった「民族」に対する「義」ではない。「義」のために死ぬということ。その義を彼らはイスラムだといっているわけだが、それは決して民族ではなく、彼らの考えるところの理想的な、イスラム教に基づく「共同体」であったりする。ビンラディンの場合は特に、民族の異なるアフガニスタンに自分たちの理想の「共同体」を創ろうとああいう行動をとった。そういう意味では、「殉共同体」という言い方もできる。
理想の「共同体」を視野に入れたたアイデンティティ・ポリティクスによる、反芸術の芸術としてのテロリズムに至る背景とは、80年代を通じて、女性作家や非欧米芸術家による、エドワード・サイードの「オリエンタリズム」で実践したような「他者性」の脱構築が行われた。「オリエンタリズム」とは18世紀以来、ヨーロッパの列強が非ヨーロッパ地域を「支配し、再構成し、統治するために作った」オリエンタルという地理的な現実であり、ヨーロッパ人の想像の中にある「虚構」である。ヨーロッパ人の利益に合わせて構築されるため、実際にその土地に住んでいる人たちは自分たちについて語ることも、主体性を持つことも許されていない。非欧米地域の芸術が植民地的な権力による自国文化の「他者」としての構築を検証するだけでなく、その「被害」の状況を声高に叫ぶようなプロパガンダ的作品も登場した。しかし、芸術は脱植民地的状況について、意義のある視点を提出することは出来なかった。芸術の文化多元主義は「欧米的な価値観だけが世界を支配するのではない」ということは、示すが異文化間の接触については何一つ表現できず、非欧米地域の文化が「多様性」の形として提示されても、欧米側のエキゾチシズムを満足させ、その寛容さのアリバイとして消費されるに過ぎなかった。
イスラム系移民などの若者たちは、差別や疎外孤独の現実の中で自我の崩壊というアイデンティティ・クライシスを引き起こす。アイデンティティ・クライシスとは自己喪失。若者に多くみられる自己同一性の喪失。「自分は何なのか」「自分にはこの社会で生きていく能力があるのか」という疑問にぶつかり、心理的な危機状況に陥ること。
テログループは理想と現実のはざまで揺れる若者の心の隙に入り込み、過激なやつほど力を持つ構図の中で「ジハード(聖戦)」を仕掛ける戦士に駆り立てていく。
社会的に認知された「芸術」のなかに局所的にテロリズムの閉域があるのではなく、かえって「芸術」そのものが社会からのテロリストたちによる営みなのである。それがインサイドに対するアウトサイドと称されるのは社会や国家といった管理者の側からテロリズムを見ているからに過ぎない。わずかの希望もなく孤絶した者から見れば、世間で広く「芸術」と呼ばれて重宝がられるているもののほうが、よほどなんの役にも立たない不要の戯れにすぎない。
「芸術」というものは最終的には、法の支配者である国家によってはけっして統御し切れないものであり、反対に、もしも「芸術」というものが国家によって管理・育成されるものになってしまったら、その国にはもはや「芸術」は存在しないというパラドクスを抱えている。
「殉教」と呼ぶテロに走る心理の深層とは一体何か。
オウム真理教は貧・病・争にほとんど関係がない。「虚しさ」だ。自分とは一体何だ、どういう存在なんだ、という生きている虚しさだった。差別や違和感そのことからくる自分の拠り所「アイデンティティーの危機」である。
連合赤軍では、革命なんて全く無知な人間でも、健軍、軍規、殲滅戦などの言葉が鮮烈で気持ちを高揚させるのである。海外には実際の革命政権があり、「世界同時革命」にはリアリティーがありロマンすら感じる。
赤軍派の核は「ロマンティシズムとピュアなスピリッツだ」だ。
また、プロモーション映像を見て、IS=イスラム国をカッコイイと思う青年が世界中で増えている。そういう映像を見て「自分も英雄になろう」と考えてしまう。
テロという暴力に対して、「正義」という名の新たな暴力での対抗には、解決の出口はなく、法や税の支援による解決などは及びもしない。何の実行もなく、言葉だけ過激なことを言っている思想や哲学などの「正義」などなんの意味も持たない。そして、政治家も同様である。圧倒的な「覚悟」を持った圧倒的な「正義」とは「芸術」の領域である。これが唯一の問題解決の実現可能性である。芸術の問題は、「ナイフやフォークの問題」より、優位でなければならないという人々は、芸術とは何かを理解していない。「芸術」の根は豊かな、不安のない土壌を必要としているのである。そして、合理的な生活の真の理想を示すということは、「政治」でもなく、「宗教」でもなく、「芸術」の仕事なのだ。
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