「正義」も「芸術」も最終的には「共同体」に行き着く。〝テロとの戦い〟とは、「共同体」をモティーフにした「戦争の芸術」に対して「芸術の戦争」で答えることである。
ビンラディンは、民族の異なるアフガニスタンに自分たちの理想の共同体を創ろうと、ああいう行動をとった。 全ての問題をつきつめると「共同体」に集約される。その「共同体 」とは、民族や伝統的な地理的な国境を超えて、人権や環境などの共通の感性と理想を持っている人々の間でネットワークを作成する共同体。それがHECP-人権環境共同公共体である。
日本においては、「芸術」としての日本国憲法や民主主義そのものが、決してオリジナルではなく、もとより欧米のシミュレーションの極東での一変種であることは、十分に心に留めておく必要がある。「テロ」と「正義」の問題についても、他人のことを言ってたつもりが、実のところ鏡に映した自分にすぎず、しかもその一部始終を見透かされていたというのでは、洒落にもならない。何よりもまず私たちの平和のありかと、そこに映る自己像を「内」閉ざすことなく、新たな「外」へと向けて放す契機チャンスでなければならない。
現在日本での憲法問題においては、政治家たちは自らの権益を守るために マッチポンプのように 問題を複雑化している。 憲法や法律は本来は「目標」であって「目的」ではないが、憲法問題が政治を職業とする人間のための 「目的」になってしまっている。
平和を希求する直接的表現において、いちいち日本国憲法を持ち出す必要は無い。憲法9条は、もはやオリジナルではなく、現代にいたるシミュラークル(simulacre)である。シミュラークルとは,ある物を別の物に置きかえること(記号化操作の第一歩)をいう。平和スタイルのまがいものをつくる模造であった。いわゆる「仏作って魂入れず」ということだ。憲法9条を通すことにより無駄なエネルギーを消耗する必要はなく、平和の「芸術」を直接表象 する方が合理的である。
かつての日本社会においては、会社や家族、国家などを中心とする「古い共同体」が強固に存在した。それら様々なリスクに対処する装置としてそれなりに機能していた。現在の日本社会の最大の問題は、こうした「古い共同体」が揺らぎ、それに代わるオルタナティブな「共同体」の概念が表象出来ないことにある。現在、1千兆円を超える財政赤字を将来世代にツケ回ししている現実の背後には、「経済成長がすべてを解決してくれる」という意識とパターナリスティック(父権主義的)な国家観が複合して存在している。これはまさに高度成長時代の「共同体」観の強固な遺物に他ならない。
日本は古来より、すべての無名の海や山などにも『八百万(やおよろず)』を神とあがめる多神教の国。日本の伝統文化は、神道を基軸として、海外の文化も取り込み、異なる価値観にも一定の寛容さを持ちながら、“パブリックネス”な家と地区の自助と共助によるの公益市場型社会を形成してきた。ミドルローワという中間層を中心に、この集団にいれば、そこそこ生きられる。これが日本の『伝統的保守』の原点であり、欧米の言うリベラルや社民に近く、弱肉強食の『アメリカ型の保守』とは異なる考え方である。
世界は今まで経験したことのない未知の時代を迎えている。世界中で起きているテロや戦争、人権問題の背景には格差や差別貧困が大きく関係し、その疎外感や絶望感が刹那主義や拝金主義を生み出している。人々の士気は下がり、夢は潰え、そして、世界は混沌の時代を迎えた。人類社会は大きな理念を示す時に差し掛かっている。問題解決の魔術は存在しない。普遍と摂理に立ち戻るべきである。今、人権や環境など世界で起こっている様々な問題に対して国家や民族としてではなく、ひとりひとりがその解決に向けて「合理的配慮」を行わないとすれば、それは全て「是認」ということになる。
〝HECP〟(人権環境共同公共体)は、日本が目指す「共同体」の“カタチ”である。歴史や伝統的価値観、文化や芸術を骨格に持っている 〝HECP〟は、日本の新しい「国体」=プレゼンスとして、世界中の国や地域に対して、人権・環境・貧困における国際貢献を展開して行く必要がある。 そして、「政体」は〝HECP〟に対応し、国土の保持や治世、外交などをうけもつ。政体は、〝HECP〟の認証を得て初めて、権力としての正当性を発揮できるのである。これが国民主権の真のあるべき姿である。
道州制などの地方分権や一院制や首相公選制などいくら勇ましいスローガンを並べ立て、政治家や学者たちが何人集まっても 、その進化を何年待っても何も変えることはできない。テクニカルで枝葉末節の政策論は議論されても一向にグランドデザインが見えてこない。おそらく、ここにきても未だに政治家や、行政・官僚、提言すべきシンクタンク、学者たちが目指すべき「表象」のイメージを掴めていないのだ。「表象は感覚なしには生じず、判断は表象なしには生じない」。アリストテレスは、表象を感覚と思考の中間に位置づけている。平和や人権・環境など、人と地球と社会の自立と共存をテーマにとした、持続可能な社会=ミニチュア地球都市の再生と構築は、「政治」の領域ではなく、「芸術」の領域なのである。その平和への直接的表現、その表象とは「家」と「地区」と呼ばれる「共同体」であり、これが「ゲマインシャフト」と呼ばれ、地球都市における「基礎自治体」として機能するのである。「共同体」は民族や伝統的な地理的な国境を超えて、共通の感性と理想を持っている人々の間でネットワークを作成するパブリックネスの「共同体」である。それは、従来の〝コミューン〟という概念とは違い、背景として資本主義や社会主義などの社会体制は選ばず、独立した〝層〟における独立した概念。それが〝HECP〟-人権環境共同公共体である。世界中では無名の人間による様々な活動が展開されている。暴力の「芸術」と非暴力の「芸術」における〝戦争〟=創造的対決の時代に突入した。現象や情報の尻先端に群がり、実行しないで、言葉だけ過激なことを言っているの政治家や役人には、政治家や役人としての分際があり、世界を大きく変革するには不向きである。新たな「共同体」の創出のためには、なにより人間の意識が革命的に変わらないといけないからだ。
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