圧倒的な「正義」の話をしよう(3)

〝退屈〟と〝損壊〟の許容。非暴力の「芸術」によるオルタナティヴな「共同体」とは。


テレビは「退屈」を最大の敵として、オチとテンポで「しのいで」きた。それが最近どんどんおかしくなってきている。話題のタレントをキャストに織り交ぜ、その「物語」よりも、その場その場の刺激で視聴率を取る、あのやり方のことである。

もともと、民主主義とは退屈なシステムである。テロや人権などの平和や命に関わる問題は「人を善悪で分けるなんて、馬鹿馬鹿しい。 人は、面白いか、退屈かの、どちらかなのだから」と浮かれた国家の法や税によって裁かれる問題ではない。

テロやファシズムという「芸術」は、群衆の「退屈」の隙をついてくるのである。

ヒトラーは青年期に画家を目指したというのは有名な話だ。自身の本質は「政治家ではなく芸術家である」としている。「芸術」というものは最終的には、法の支配者である国家によってはけっして統御し切れないものである。

多くの日本人は『日本は民主主義社会だ。先進国だ。だからそんなものと完全に切れている』とは思っているが、ドイツでもアメリカでもどんな社会もそうした『悪の凡庸さ』に陥りやすい。それからドイツのような悪によって迫っていく社会は突然現れたわけじゃない。日常の平凡な積み重ねの中からああいう状況が出てきたのである。

『大衆は馬鹿で女性的だ。1000回ウソを言うと、それは真実になる』と、ヒトラーは『わが闘争』で書いている。

ヒトラーにとって演説はそのものが弁論術であり「芸術」であった。

つまり、演説そのものに「価値」があるのであって、具体的な政治的内容によって意味が生まれるかどうかは問題ではないということである。 ヒトラー演説を決定的に特徴づけているものがこの「二元論」である。これは、一種の「単純化」のスタイルであって、相手に、「あれかこれか」の選択を迫る、一種の「会話の暴力」の構成になっている。どんな複雑な問題も、すべてを 敵か味方かの二元論にすることによって、相手に「分かりやすい」という印象を与え、決して退屈させない。二者を対比する形式を採りながら聞き手に片方の選択肢を採るように強制する。この対比による印象づけは、敵と味方という二分法によく表れている。演説全体を通して見ると、次のような表現が敵と味方を表していて、白と黒とを際だたせていることに気づく。また、味方陣営を「われわれ」で包括する語り方も、白黒図式のもとでの連帯感形成による説得術である。

〝HECP〟の持つテーマとは、Human rights(人権)、Environment(環境)、Community(共同)、Public goods(公共)と、どれも地味で退屈なものばかりである。

戦後民主主義は「退屈でつまらない」、という戦争を知らない世代の考え方が、日本におけるポストモダン思想の根本にあり、そして、その延長上に、思想・政治のサブカルチャー化の進行や、昨今の大衆的情緒に訴える「ナショナリズム」が台頭する背景になっているのである。

「政治や思想をオチやネタとして興味付けする。」この社会行為は、それがサブカルチャーという本質を持つために、政治参加や表現としての政治活動とは無縁である。それどころか、根底にあるのが、「政治を批判ではなく、思想も無く馬鹿にする」という情緒的思考ですらあるために、単に政治に対してニヒリズムに陥った無関心層とは違い、同調するオチとテンポを持ったリーダーが登場すると、テレビなどのメディアが中心となり、面白おかしく劇場型のスパイラルに巻き込まれ、過去に犯した誤りの歴史をふたたび繰り返すことになるのである。

「現代社会は完全神話を信じ込んでいる。」

「完全なるもの」はこの世に存在せず、「完全」、「不完全」の世界観は別個に存在するもではなく、連続的でスペクトラムである。HECPはリ・コンシャス=環境生態系芸術を理念としている。その底流にあるのは「命の個」=アッサンブラージュだ。HECPの提唱するアッサンブラージュとは、寄せ集めること、未完全であることと定義している。つまり、「ピースバイピース」のイメージの広がりであり、「群れ」と「バラバラ」という相反相関の概念である。それぞれの概念の表象=弁証法的発展を目指し、これからの多層なパブリックを形成していくための重要なキーワードだ。〝損壊の許容〟とは、古くても壊れていても、それは全て〝命〟であるという考え方である。

〝損壊の許容〟は、環境問題だけにとどまらず、すべての人間に内在する「障害観」の問題にも密接に関連している。 〝ノーマライゼーション〟は障害者や 高齢者がほかの人々と等しく生きる社会・福祉環境の整備,実現を目指す考え方だ。日本社会は、「完全」と「不完全」が連続的な概念であるにもかかわらず、対立概念として捉えられることにより、「不完全」なものに対して極めて不寛容である。日本では障害者政策というと施設やインフラの整備など、「物理的な側面」ばかりが強調され、健常者と障害者の分離政策により、障がい者に対する偏見や世論の関心も薄くなっているのが現状である。

〝退屈〟と〝損壊〟の許容という表象によるオルタナティヴな「共同体」とは一体何か。HECPという「芸術」の目指すクオリアとは。「芸術」をスタティックな、シンボル的な、モニュメンタルな造形物として捉えるのをやめ、人間の動的なアクションのなかで考え、世界中で群発的に圧倒的な〝パラダイム・シフト〟を呼び起こすことにある。

〝パラダイム・シフト〟とは、「個の逆転」である。「人には、劇的に考え方や感性が変わる瞬間がある。」

それまでの常識が一気に覆り、新しく目が覚めたような気分になる。このような体験を、パラダイム・シフトと呼ぶ。単なるきっかけがあったり動機を備えていたりするだけでは、人はそう変われないものである。〝パラダイム・シフト〟はもっと強力で不可逆的だ。人権や民主主義の真の確立とは、その制度の問題ではなく、なによりも「退屈」や「損壊」を許容するという、これもまた、人間の意識が革命的に変わらないといけないのである。

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