クラウドという「戦場」ー自己学習による、世界中に2000万の法と税と暴力を通さない、「家」と「地区」の共同体。
日本の都市再生や地方創生においては、政府や学者シンクタンクによる周回遅れのヨーロッパ都市再生のドグマからの脱却が必要である。HECPにおける家と地区の「共同体」は、現在、日本全国には700万以上といわれる空き家や廃墟や長屋、文化住宅などのミニマルな〝小さな家〟と過疎や貧困、災害、紛争などの苦難を背負った「疲弊地区」を核として展開している。廃墟などの老朽化した建築物は、人の不完全さを許容し、欠落を満たしてくれる、精神的な面で都市機能を補完する建築物だ。都市の成熟とともに、人の心が無意識かつ必然的に求めることになった、『魂の安らぎ』の空間なのである。また、「限界集落」などの名称は、情報の尻先端を追う学者やマスコミによる造語であり、日本古来の伝統である「侘び寂び」の美意識からすると、「限界集落」はまさに宝の山であるといえる。「侘び寂び」とは、不足の美、不完全の美である。侘(わび)は、貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする美意識を言う。寂(さび)は、時間の経過によって劣化した様子を意味している。
〝HECP〟(人権環境共同公共体)は、日本が目指す「共同体」の“カタチ”である。
一般的に日本人が考えるパブリックとは、先にそのような空間が公共機関によってつくられていて、人々はそこに行くと公共的なふるまいをしなければいけないという漠然としたものではないか。HECPは、個人個人がオープンにすることによって各自のもつ価値にアクセスができる。そして、そこからパブリック空間が生まれる」という。普段は、自分一人だけいるとき家はプライベートな空間だが、お客がくれば、その空間はパブリックになる。つまり、「パブリックとプライベートは対立する要素ではなく、何をプライベートにして何をオープンにし、パブリックにするかということを個人が自分自身で選んでいく自己決定性」だという。自らの部屋をオープンにしてシェアすることで世界中に宿泊先を提供したり、手料理を地域の人とシェアするといったさまざまなシェアリングサービスは、「個人個人がいろんなリソースをパブリック化し、シェアすることで、みんなにとってのメリットや価値、経済、市場が生まれるのだ。
このパブリックネスの〝小さな家〟は、高齢者にとっての〝小さな仕事場〟でもある。現代社会では、一般的に労働の最高状態として「芸術」が認識される場合が多い。日常と非日常の関係においては労働の目的として、「芸術」の存在があるが、本来は「芸術」の目的こそ、労働であるべきでなのである。オルタナティブな高齢社会のモノづくりの概念においては「労働の喜び」が基本にならなければならないのである。つまり、「芸術」は一部の装飾品だけではなく、全てコモディティに内在するべきである。高齢者の職人的創作の領域は家・家具・雑貨・飲食など多岐にわたる。高齢者の「芸術」とは、〝小さな仕事場〟で正直に、野心も虚栄心もなく、秩序ある生活を楽しみ、人々の利用に役立つ物の生産という有用な役割に誇りをもって従事することにより、「芸術」をスタティックな、シンボル的な、モニュメンタルな造形物として捉えるのではなく、人間の動的なアクションのなかで考え、家と地区という「共同体」を表象していくのである。
高齢者の〝小さな仕事場〟がフラクタルなアッサンブラージュとなり、HECPの「共同体」として表象され、世界中の高齢者がクラウド上での自己学習により、世界中に2000万の法と税と暴力を通さない、「家」と「地区」の共同体の実現を果たすのである。
HECPのアーツアンドクラフツと呼ばれる「実践的芸術主義」の運動における、ファンダメンタルな思想的基軸は「非権威」ー受動的不服従であり、そして、その主体が「無名の高齢者」なのである。
HECPのアーツアンドクラフツー「実践的芸術主義」の思想とは、「非権威」ー受動的不服従の「啓蒙」と「寛容」にある。
啓蒙は、「芸術」によって因習や迷信を打破し、その抑圧から人間を解放する思想運動。寛容は、異なる伝統や文化が許容する多層の制度や社会資源との共存の技術。その具体的表象が「非権威」ー受動的不服従である。「非権威」ー受動的不服従とは自己の思想に内在的な運動の抽象的な否定でなく、そうした自己運動自体を具体的普遍たる全社会体系の変動の契機(モメント)として積極的に捉える努力を試みることである。「無名の高齢者」が主体となり、社会文化の変革を求めるにあたって、決して政治的に支配層を倒す権力闘争ではなく、政治や経済ではなく、「芸術」によって問題を解決する「争わない、衝突しない、対決しない」社会運動であり、「法」と「税」と「暴力」を通さない「芸術」による啓蒙である。そして、そのモティーフとして家と地区という「共同体」の存在がある。
予算を背景にした施策は一見突破力があるが、政治的制度的な改革には限界がある。 「非権威」ー受動的不服従は真実や自然の摂理に目を向け、不合理な権威や社会的制度、慣習に従わない 非暴力・非権力の運動である。無意識の世界で我々を規制している政治的なものの考え方の中でも一番基底にあるもの」が「権威信仰」である。「権威信仰」を支えるのは「既成事実への屈服」と「普遍の意識の欠如」を無意識の世界での自己コントロールである。
「実践的芸術主義」における「非権威」ー受動的不服従の思想を成熟させていくために、強固で絶対的な「普遍的正義概念」が必要になってくる。
「普遍的正義概念」とは、
反転不整合の禁止。 ー自分が出来ないことを相手に求める自分が受け入れられないことを相手に課してはならないというルール。自分と相手の立場を反転させて、それでも許容できることだけを相手に要求できるのだ。
タダ乗りの禁止。 ー自分が危険を冒すことなく利益だけ求める「タダ乗り(フリーライド)の禁止」は、コストを払わずに利益だけを得るのは不正だということ。
二重規範の禁止。ー 自分の都合で言ってることの基準が変わること。「二重規範の禁止」は、ダブルスタンダードを使ったご都合主義を許さないことだ。
世界の平和を脅かす、テロという暴力に対して、何の実践もなく、言葉だけ過激なことを言っている思想や哲学などの「正義」などなんの意味も持たない。圧倒的な「覚悟」を持った圧倒的な「正義」とは「芸術」の領域である。これが唯一の問題解決の実現可能性である。「普遍的正義概念」により、政治や思想、芸術のサブカルチャーやニヒリズムの表象なき評論や情緒的思考との差別化を行うことが、世界に対して文化や伝統、宗教の違いを越えた、真の友愛や連帯を包摂した「共同体」のリアリティーを呼び起こすことが出来るのである。 「普遍的正義概念」は家と地区による「共同体」の実現可能性と持続可能性において、ファンダメンタルな「核」であり、世界中の苦難を背負った多くの「無名」と「無産」の人々に依拠するためには、自己の思想に内在的な運動の抽象的な否定でなく、そうした自己運動自体を具体的普遍たる全社会体系の変動の契機(モメント)として「実践的芸術主義」を粘り強く持続遂行することが最も重要なのである。
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