政策決定権から疎外された高齢者 ー高齢者に必要なのは、「パン」でも「バター」でもなく、「詩」であり、「芸術」である。
「下流老人」などの言葉遊びにより、高齢者や高齢化社会のイメージが一人歩きし始めた。一体、「下流」 の何が悪い。高齢者が恐いのは「貧困」でも、「孤独」でも、「疎外」でもない。本当に恐いのは「尊敬」されなくなることだ。
現在の日本の〝高齢者〟は、「シルバー民主主義」などと揶揄されながら「優雅に暮らしている」と思われ、年金の世代間格差の議論では「老人が若者から搾取をしている構図」だと言われる一方で、最近は“下流老人”という言葉が一人歩きし、現実態の〝高齢者〟や高齢化社会に対する議論の障壁となっている。2014年12月の総選挙後の衆議院で、65歳以上の議員比率は16.8%、75歳以上は1.3%にすぎない。65歳以上が全人口の25%を超え、75歳以上も12.5%を超えることを思えば、〝高齢者〟の代表性は著しく疎外されている。かつて〝高齢者〟が政財界を支配することがあって「老害」が叫ばれ、その「年齢制限」の対策は着々と実行された。 しかし、問題の本質は決して、年齢などの問題ではなく、それぞれの個人の資質の問題である。その結果、「レトリック」や「プレゼンテーション」には長けているが「若害」というに相応しい、「未熟」で「稚拙」な議員が国や地方で枚挙にいとまが無い程の不祥事を起こしている。害悪に、「老害」も「若害」などない。「害悪はその人間限り」である。〝高齢者〟は「年齢制限」という不思議な理由で政策の対象者ではあっても、決定権からは疎外されている。
〝高齢者〟は莫大な社会資源である。日本はいまや高齢化社会のはるか先をいく「超高齢化社会」に突入している。現在、日本の高齢者(65歳以上)人口は2700万人に達し、4人で1人の高齢者を支えている。25年後に全体の約3分の1が高齢者になると予測されているほどの、世界一の“高齢者大国”なのだ。この世代の人たちを、年金や福祉を消費する側から支える側へと変えていかなければ、超高齢社会の持続は困難になる。また、大多数の〝高齢者〟は多少の助けがあれば、日常生活や仕事も続けられる。「高齢者問題」の解決は、社会や時代に合わせた自立支援も重要だが、 国や 地域社会が、〝高齢者〟によるモノやサービスをの、現役世代と衝突しない「アマチュアリズム」のアファーマティブな市場スキームを構築する方がその「実現可能性」や「持続可能性」において合理的であると言える。地域社会が〝高齢者〟を必要とするスキームを構築することにより、自らが社会に必要とされている喜びで〝高齢者〟の「労働観」は大きく変容する。 高齢化社会において「支えられる側」から「支える側へ」ーこのドラスティックな転換のもたらすイノベーションは自らのやりがいや充実した生活だけではなく、それらを取り巻くサービスやコミュニティのスタイルが市場主義偏重の人と人の関係性から、ユニバーサルな新しい価値観や関係性への変革をもたらすのである。 世界に目を向けても、先進国の抱える共通のビッグイシューは「高齢化問題」だ。日本は課題先進国のトップランナーを走り、世界中がその解決を注目しているのだ。総花的な政策設定ではなく、この問題を徹底的にフォーカスすることにより、医療・年金な どの社会保障問題だけに留まらず、財政・雇用等の諸問題を包括的に一気に解決することができる。そして、その解決における実現可能性や持続可能性の主役に、一番近いのが〝無名の高齢者たち〟であるということを忘れてはならない。「支えられる側」から「支える側へ」ーこのドラスティックな転換のもたらすイノベーションは〝高齢者〟のやりがいや充実した生活だけではなく、それらを取り巻くサービスやコミュニティのスタイルが市場主義偏重の人と人の関係性から、ユニバーサルな新しい価値観や関係性への変革をもたらす。
平和や人権・環境など、人と地球と社会の自立と共存をテーマにとした、持続可能な社会=ミニチュア地球都市の再生と構築は、「政治」の領域ではなく、「芸術」の領域なのである。その平和への直接的表現、その表象とは「家」と「地区」と呼ばれる「共同体」であり、これが「ゲマインシャフト」と呼ばれ、地球都市における「基礎自治体」として機能するのである。「共同体」は民族や伝統的な地理的な国境を超えて、共通の感性と理想を持っている人々の間でネットワークを作成するパブリックネスの「共同体」である。それは、従来の〝コミューン〟という概念とは違い、背景として資本主義や社会主義などの社会体制は選ばず、独立した〝層〟における独立した概念。それがHECP-人権環境共同公共体である。「共同体」を考えるに当たって、参考になるのは、リベラリストのロールズの、「無知のベール」という考え方がある。「無知のベール」とは人々が全員、自分がどういう存在か知らない「無知のベール」をかぶり、その上で公共のルールを考えたらどうなるか、という思考実験だ。そのベールをかぶると、自分の宗教も、社会的地位も、職業も、学歴も、財産も、性別や体調、皮膚の色さえもわからなくなる。 そして、ベールを脱いだときに、自分は一番弱い少数派になっているかもしれない。だから、もっとも「弱い人」が尊重されるルールが選ばれるはずだというわけである。つまり、「人として」どうあるべきかという問題に一番近い存在を得ることが出来る。これに対し、〝これからの「正義」の話をしよう。〟のサンデル氏は、「負荷なき個人」なんてものは存在しない、人間は何らかの価値観を背負って生きていくのが前提なのだから、無知のベールはかぶれない、と批判した。そんな抽象的な人格を考えるのは、いわば空論ではないか、というのが有名なサンデルのロールズ批判である。
しかし、その空論を表象に変化させる主体となりえるのがこれからの〝高齢者〟の存在である。つまり、「権威の脱衣」の実現可能性である。 これからの〝高齢者〟は今まで役職から解放され、独りになり社会に貢献することを人生のやりがいや生きがいにするのである。仕事や子育てのトンネルから解放され、自分が本当にやりたかったことは何なのか問いかける時期が、特に独人期と言われる60ー70歳台であり、その10年間は人生の集大成の「芸術」の期間であり、〝プラチナテンイヤー〟と呼ばれる。これからの〝高齢者〟の「芸術」とは、HECPを理念とした「共同体」という圧倒的な「正義」の実現である。
「人類社会の理想」の実現における主人公は、「無名」の高齢者である。
国や行政の既存の仕組みに任せているだけでは進まない。〝高齢者〟一人一人が動くしかない。〝高齢者〟が「共同体」の在り方を決定すれば、ドラスティックに社会が動き始める。そこに「ニーズ」が生まれるからだ。〝高齢者〟がオルタナティブな「共同体」の表象を通して、世界のパラダイムシフトを起こすのである。これからの〝高齢者〟の社会的使命は、次世代の子供たちのために、「人類社会の理想」を表象することである。「言語や論理で説明できない領域が、今後の競争力の源泉になっていく」。「共同体」は〝高齢者〟にとって最大の「正義」であり、最大の「芸術」であるといえる。 こうした変革は法や制度による問題ではなく、美意識の問題であり、「芸術」の領域の問題なのである。今後、 〝高齢者〟が個人として小さな規模で成し遂げることが、結果として圧倒的な力を形成し、国や世界全体の特徴を作る。ニーチェは物事の認識について、「樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら。それは果実だと誰もが答えるだろう。しかし実際には種なのだ」と言っている。「夢」は人が生きるためにどうしても必要なものである。「夢」はそれが実現して始めて価値を持つものではなく、実現することを信じて夢の実現に向かって行動しているその時に行動している人を活性化してくれることに価値がある。そして、「夢」がいつか実現するという確信の度合いが高いほど人は活性化される。現在、世界中で展開されている〝高齢者〟の小さな「芸術」はほとんどの人々には鉛筆の足跡にしか見えないが、そのデッサンは確実に大輪の薔薇を表象しているのである。
「芸術」とはそういうものなのである。
0コメント