HECPの「芸術」運動はテロリズムという「反芸術」に対する囲碁戦だ。 〝人類社会の理想〟の実現における主人公は、〝無名の高齢者〟である。
〝無名の高齢者〟は平和を希求する〝世界理念〟実現のための小さな「碁石」であり、
それは決して、「駄目」などではなく、状況を劇的に変化させる「捨て石」である。
HECPの〝実践的芸術主義〟とは消滅することによってますます存在感を強くする、運動の表現だ。そして、「テロ」との戦いとは〝共同体〟をめぐる〝テロリズム〟という「反芸術」に対する、「芸術」の〝囲碁戦〟である。時代は「テロ」との戦いを言い出したときから、戦争には輪郭がなくなり、世界中にしだいに戦争が拡散しているという気配が出来上がった。多くの政治家の発想は、昔の国家間戦争のドグマから抜け出すことができない。今、国家による「チェス」の話をすること自体、もともと出発点でずれている。
「囲碁」の場合、駒(碁石)は白と黒によって敵と味方を区別されるにすぎない。駒たちはすべて無名で、特性がなく全て平等である。これに対して「チェス」の駒は、序列化された階層構造の中で明確に役割を与えられている。その機能を変化させることはなく、最終目標のために任務を遂行する。
「チェス」の駒は、その役割に応じてコードに沿った動きをするが、これに対して「囲碁」の駒には戦線もコードもなく、戦略如何によって、いかなる地点にも出現しうる。「囲碁」の駒は、突然現れる。突発的な権力行使によって、状況を劇的に変化させることが出来る。「チェス」が国家運営のゲームであるとすれば、「囲碁」は戦争機械を運営するテロリズムに対するゲームであると言えるだろう。「チェス」は単一の中心=王様をもつが、「囲碁」は単一の中心をもたない。
世界中にHECPの〝共同体〟を表象するためには、全世界に同意を求めることのできる普遍的理念として〝リ・コンシャスの理念〟が必要になる。
HECPの〝共同体〟の理念は、西側先進国だけの都合のよい国家的枠組みの中になんとしても押さえ込もうとするのではない。また、国家に抗する〝共同体〟という意味ではなく、国家や行政区分の概念を超えた、現実態としてそれぞれの地域やそこに住んでいる人々が、「生活の簡素さ」により、住んで生きられる状況をつくっていく。それが基本的で一次的な秩序形成だと言える。日本は古来、海や山など『八百万(やおよろず)』を神とあがめる多神教の国。日本の伝統文化は、神道を基軸として、海外の文化も取り込み、異なる価値観にも一定の寛容さを持ちながら、自助と共助による公益市場社会を形成してきた。この集団にいれば、そこそこ生きられる。これが日本の『伝統的保守』の原点であり、欧米の言うリベラルや社民に近く、弱肉強食の『アメリカ型の保守』とは異なる考え方である。 イスラムでもない、アメリカングローバリズムでもない、「世界国家なき世界社会」の普遍性と摂理に基づいた「共同体」の実現が求められているのである。
〝アラブの春〟は一時的なあだ花にすぎなかった。しかし、エジプトのタハリール広場に集まる民衆の行動で、三十年間戒厳令のムバラク政権が倒れた。誰も倒れるとは思っていなかった。それを非武装の民衆が倒したというのは、今後のエジプトの記憶に刻まれるのは紛れもない事実なのである。
〝人類社会の理想〟の実現における主人公は、〝無名の高齢者〟である。〝無名の高齢者〟は平和を希求する〝世界理念〟実現のための小さな「碁石」であり、それは決して、「駄目」などではなく、状況を劇的に変化させる「捨て石」である。囲碁の駒は、突然現れる。突発的な権力行使によって、状況を劇的に変化させることが出来るのだ。〝無名の高齢者〟には、何ものにも囚われないリベラル(自由)がある。〝無名の高齢者〟が他から期待されるところは、善意の、誠心誠意の、私利私欲を離れての、かつ「深謀遠慮」としてのわがままであり、そして、何ものも恐れることのないラジカル(決死)がある。これこそが〝無名の高齢者〟の本領なのである。
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