無名でたったひとつの〝家〟が、その時代の象徴としての「存在感」を持つことが出来るのか。
ちっぽけな住居や路地空間でも、創意工夫で美しいギャラリーやミュージアムになる。この住居ギャラリーや路地裏アートは、高密度に暮らす〝ガモウ〟ならではの展示手法。小さなアートを路地、玄関やベランダなどに持ち込み、地区全体のアート化につなげていく。開発により都市をアート化し、アートを増やすことはすばらしいことだが、ガモウにはガモウのやり方がある。小さなアートを慈しみ、それらを近隣で分けて、どんどん囲んでいく。地域の再生とは「囲碁戦」である。その過程で、近隣とのコミュニティが密になり、地区にコミュニケーションが広がり、スマイルが増えていく。安全で安心できる住みよい美しい地区が育てられていく。これが本来の芸術の目的であり、ガモウ的な都市アートの目標である。
HECPは〝芸術〟を〝国家〟や〝都市計画〟のような「大芸術」と〝家〟や〝地区〟という「小芸術」に二分しつつも、決して対立概念ではなく、独立した〝層〟として二者を分離できない「芸術全体」という枠組において把握していることを示している。両者を「芸術全体」へと再融合すべく、日常生活の「小芸術」に足掛かりを求めるのである。「小芸術」とは具体的には〝家〟や〝地区〟という「家造り」「家具木工」「小物雑貨」などの工芸であるとされ、日常生活において一般の民衆によって使用されるものの表象を意味する。生活の簡素さーそれは趣味の簡素さ、すなわち甘美で高尚なものへの愛を生むものであるーは、われわれが切望する新しくよりよい芸術の誕生のためにもっとも必要な事柄である。豪邸であれ、バラックであれ、あらゆる所に簡素が必要である。日本には、昔から「もったいない」の精神心があり、徹底したリサイクルが行われ、緑も豊かな江戸時代のまちづくりに代表される良き伝統があり、また優れた智慧と技術がある。また、古来よりの日本の伝統文化に「侘び寂び」がある。侘(わび)は、貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする美意識を言う。寂(さび)は、時間の経過によって劣化した様子を意味している。
HECPバウヒュッテ はリ・コンシャスな〝アーツアンドクラフ運動を志す、アールブリュットな職人の集まりである。その中心は「芸術」が少数の富者によって、功利的に価値づけられる現代社会において、「芸術」から疎外された〝無名な人々〟である。リ・コンシャスとは「生活の簡素さ」という人間の生き方のテーゼであり、「表象の簡素さ」とは生き方に連なる芸術享受や芸術表現の問題であると言える。 「芸術」に関する「表象」の問題を美術の内部からの単なる表現の問題として捉えず、「生活」という次元から根本的に問う態度を知らしめる必要がある。 「芸術作品」は広義には「人間の創造した何か」であり、「生活のあらゆる外的表現」によるとされる。HECPバウヒュッテは、その表象を〝家〟と〝地区〟の〝共同体〟をHECPの総体として位置づけ、〝家〟を工芸的側面ではなく、「住まい=Home」という生活の場として捉える。そして、リ・コンシャスの「芸術」のひとつである「小さな家」づくりを「全ての始まり」とする。初発的なものとして日本の各地において〝家〟と〝地区〟の表象を展開していき、究極的には世界中の多くの〝無名な人々〟が〝自己学習〟により、自足的に家を構えることを理想とするのである。
その手法は残置された家具などを解体して、床・壁・天井などの補修に充てるという、現場主義の行き当たりばったりで設計図などはありません。設計図というのは、複数の人間でやっていたり、工場で作ってもらうためにある。ひとりでやっている分には必要なく、そもそも設計図をかこうと思ったら、つま先から頭のてっぺんまで、全部設計しないといけない。イメージスケッチしかないのに、そんなのできるわけない。それよりも身の回りの資源を徹底的に利用して行き当たりばったりで、限界ギリギリでやっていくほうが、結果的に無駄も無く面白いモノができる。材料を揃えようと思うよりも手元にあるものや残ったものをどう利用するか、どう再生するかを考える。「もったいない」という精神。 リ・コンシャスな発想で素材を生かし決して過度な技巧に走らず、多少不細工でもどことはなくプリミティブでアーティステック。そして、何よりもインパクトにあふれ存在感抜群だ。HECPの家づくりは難解な設計図や高度なテクニック、複雑なコミュニケーションは一切必要としない。誰でもひとりで参加できる。
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