KfAPカダモフェデラルアートプログラムにおいても、マネジメントやキュレーション能力を高めるためのトレーニング=教育機関がある。それがARTU=アート小学校である。
一番特徴的なのは、「デッサン至上主義の否定」である。アートが前時代的で偏狭的な教育理念から本来の役割を取り戻すことが必要である。これは理屈ではなく、子供たちや障害者の作品を見れば一目瞭然だ。今でもアールブリュットを現代アートへという考え方の風潮があるが、これは本末転倒であり、現代アートは彼らから学ばなければならないのである。教育者はデッサン教育という名で、没個性化を図るのではなく、彼らの才能を伝えるキュレーション能力を高めるべきなのである。
アールブリュットうやアウトサイダーと呼ばれる概念ではあるが、あくまで、ゼロベースでアートのレゾンデートルを追求していく。ただ、ポストモダン以降の既製の価値観、スタイルを解体するというような、決して衝突を生み出すものではなく、あくまで一次元超えた、ゼロベースでのアートの価値軸の再構築である。
一般的に日本では、アート=美術として美大を頂点とした、エクスクルーシブな“美術村”の存在がある。残念ながら日本国内にはアートとしてのマーケットは存在せず、学校卒業後は、行き場はなくアバンギャルドを気取る「自称芸術家」として、社会を斜め見ながら過ごすか、美大予備校やカルチャーセンター講師、そして、美術系大学を卒業した人材を吸収するのが全国の小中高の美術の先生である。
「現代社会は完全神話を信じ込んでいる。」
「完全なるもの」はこの世に存在せず、「完全」「不完全」の概念は連続的でスペクトラムな状態で存在している。また、西欧の伝統的な美意識には黄金比に起源するプロポーションの観念があり、それは反面、階調であるがゆえに退屈で魅力を感じない。KfAPでは、むしろプロポーションが少し乱れたり、歪んだり、傾いたりしているところにこそ、本当の美がある、という考え方だ。
楽焼に金継ぎと言う技法がある。
割れたり欠けたりした陶磁器を漆(うるし)で接着し、継ぎ目に金や銀、白金などの粉を蒔(ま)いて飾る、日本独自の修理法で、修理後の継ぎ目を「景色」と称し、破損前と異なる趣を楽しむ表象。
KfAPカダモフェデラルアートプログラムにおいては、アートとコモディティの統合を謳ってるが、アートそのものの可能性を否定するわけではない。
芸術的評価は国際的な視点からなされるものであって、日本国内における偏狭的な評価を基準とするものではない。今、芸術に必要なのは表現技術分野ではなく、あくまで「芸術を理解する能力」つまり、アートリテラシーである。日本の芸術教育やデザイン教育の最大の問題点が「オシャレが理解できない」、「オシャレの“旨味”がわからない」。世界的視野を持ち解読する能力が欠落している。表現よりも、理解や共生という基礎能力の獲得、芸術を通した経済至上主義の国民性の改革、アートを通したあるべき社会像の模索。これらの、日本人の欠落している多くの問題は、芸術教育の失策が最大の原因なのである。
芸術とは人間そのものの理解であり、この行為は人類最大の難題を背負うということである。そして、その大局的な表現を展開することが芸術家である。「芸術とは圧倒的なこと。」「芸術家とは圧倒的な人」と言うことになる。
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