HECPにおけるアートの運動領域の「非権威」とは自己の思想に内在的な運動の抽象的な否定でなく、そうした自己運動自体を具体的普遍たる全社会体系の変動の契機(モメント)として積極的に捉える努力を試みることである。
「民衆芸術」モリスのアーツアンドクラフツ
「モリスの提唱する『民衆芸術』は芸術を国家や都市計画のような「大芸術」と家という空間の中で展開される「小芸術」に二分しつつも、二者を分離できない「芸術全体」という枠組において把握していることが示される。分離した両者を「芸術全体」へと再融合すべく、日常生活の「小芸術」に足掛かりを求めるのである。「小芸術」とは具体的には「家造り」「家具木工」「小物雑貨」などの工芸であるとされ、日常生活において一般の民衆によって使用されるものの政策を意味する。民衆が「小芸術」の在り方を問い直し、「芸術」の理解が高まることで、「大芸術」も「民衆の芸術の威厳」を回復するという理念を打ち立てたが、残念ながらモリスらの労働者のための芸術による社会改良運動は極めて皮肉な結果を生んだ。つまり、モリスをはじめとするアーツ・アンド・クラフツのメンバーによる優れた美術工芸品の数々は一つ一つ手仕事で作られていたため希少でしかも高価であった。このため受注する仕事は、そのほとんどは当時台頭しはじめていた生産に携わらなくても何不自由なく暮らしていける「有閑階級」(Leisure Class)と呼ばれる顧客によって賄われていたのである。」
「用の美」柳宗悦の民藝運動
「日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品の中に「用の美」を見出し、活用する日本独自の運動である
柳宗悦の民藝運動は、個別の作品だけでなく「無名の芸術性」という新しい美的価値観を普及させた。しかし、一方で、それまで無名だった物に 「無名芸術品」というタグを付ける行為となった。 結果として、それまで何にも属さない本当に自由だったものを 「民藝」というブランドに取り込んでしまったのだ。それは結局、柳が否定した利休後の茶の湯の 「権威による名物作り」と同じではないだろうか。柳やその周りの人物がその芸術性を本当に理解していたとしても、理解(美的価値観)を他人に伝える事は困難な事であり、民藝というタグ(権威)で保証された芸術価値に変容してしまうのだ。」
モリスのアーツアンドクラフツや宗悦の民藝運動など、既存の〝権威〟に対して、様々なアプローチが行われたが、既存の権威に反対する活動というのも一種のシステムであり。,権威を崩壊させたところで,オルタナティヴなスキームを創出しない限り,また新たに生じた大きな権威に組み込まれるというパラドクスに巻き込まれることになる.
「寄せ集めること、未完全であること」
無名・非権威の〝アッサンブラージュ〟。
イデオロギーは現実に対して個人個人が抱く、一種の固定概念のような幻想的な関係の表象とされる。しかし、それは、単に抽象的な規則として無理やり押し付けられるのではなく、教育や、宗教的儀式や、日常生活の行事などの生活全般に関する具体的な行為を通して植えつけられていくものである。そして、常に「あなたはこの文化における〈主体〉の概念にふさわしい行動をしていますか?」と繰り返し呼びかけられるのである。この呼びかけをアンテルペラシオンと呼び、これに応えようとするうちに、人は自分自身で行動するよりも、社会が決めた行動様式にしたがって生きていくことに安心と快感を覚えるようになる。そして、無意識の世界で我々を規制しているものの考え方の中でも一番基底にあるもの」が「権威信仰」である。「既成事実への屈服」と「普遍の意識の欠如」という無意識の世界でのアンテルペラシオンというコントロールが「権威信仰」を支えているのである。
HECPの提唱するアッサンブラージュは、決してパロディでもなく、パスティーシュでもない。また、伝統的な形態に回帰して、歴史の流れを無視して形式だけを借用するという、単なるポストヒストリーなアレゴリー的衝動ではなく、日本の神道に通じるアートを生命運動として捉えたフラクタルでスペクトラムな〝断片〟である。アートの世界において、自分でオリジナルを作る作家などほんの一握りに過ぎない。生活の中のありきたりの〝断片〟に込められた意味を寄せ集め、新たな〝断片〟を映し出すことで観客に真実を知らせることが本来のアートの役割である。
「アーツアンドクラフツ」、「用の美」における
ー「生活の簡素さ」
「生活の簡素さ」ーそれは趣味の簡素さ、すなわち甘美で高尚なものへの愛を生むものであるーは、われわれが切望する新しくよりよい芸術の誕生のためにもっとも必要な事柄である。豪邸であれ、バラックであれ、あらゆる所に簡素が必要である。しかしながら、多くの〝ロウアー〟が望むのは欲望を抑えた簡素な生活ではなく、普通の金持ちがするような裕福な暮らしである。ウイリアム・モリスのアーツアンドクラフツや民藝運動の思想の最大の欠点は、この〝ロウアー〟の心性を全く把握できなかったことにある。
「現代社会は完全神話を信じ込んでいる。」
「完全なるもの」はこの世に存在せず、「完全」「不完全」の概念は連続的でスペクトラムな状態で存在している。また、哲学者のフランシス・ベイコンがこのように言っている。 西欧の伝統的な美意識には黄金比に起源するプロポーションの観念があり、それは反面、階調であるがゆえに退屈で魅力を感じない。プロポーションが少し乱れたり、歪んだり、傾いたりしているところにこそ、本当の美がある、という積極的なアプローチが必要である。 日本では伝統的な美意識による既成のプロポーションの観念やコンプレックスも強く、「新品崇拝」も合わせて「古いもの」、「傷のついたもの」、「壊れたもの」には非寛容であり、「リメイク」や「リノベーション」、「コンバージョン」「アップサイクル」などの「旨味」が理解できる人間が少ないのが現状である。それは時として問題の本質を隠蔽し、本当に大事なことを見失うことになるのである。
「侘び寂び」の美意識とパラダイムシフト
日本には、昔から「もったいない」の精神心があり、徹底したリサイクルが行われ、緑も豊かな江戸時代のまちづくりに代表される良き伝統があり、また優れた智慧と技術がある。また、古来よりの日本の伝統文化に「侘び寂び」がある。侘(わび)は、貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする美意識を言う。寂(さび)は、時間の経過によって劣化した様子を意味している。こうした伝統と優れた技術を活かし、無名のロウアーの、実践的芸術主義による「小芸術」が、「大芸術」において大きな波及を及ぼし、HECPは「芸術」をスタティックな、シンボル的な、モニュメンタルな造形物として捉えるのをやめ、人間の動的なアクションのなかで考え、世界中で群発的に圧倒的なパラダイムシフトを呼び起こすことにある。パラダイム・シフトとは、個の逆転である。「人には、劇的に考え方や感性が変わる瞬間がある。」それまでの常識が一気に覆り、新しく目が覚めたような気分になる。このような体験を、パラダイム・シフトと呼ぶ。単なるきっかけがあったり動機を備えていたりするだけでは、人はそう変われないものである。パラダイム・シフトはもっと強力で不可逆的である。
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