HECPはSTAND(自立と覚悟)という思想核の実存による、 市民社会ネットワーク革命

はじめに


民族や伝統的な地理的な国境を超えて、共通の感性と理想を持っている人々の間でネットワークを形成する共同体。それがHECP〟-人権環境共同公共体である。

-地球規模での〝家と地区の再構築〟の観点から


辻廻 六十



世界中で群発的に発生するテロや自然災害などの人類社会の危機に対して、〝新しい公共〟という行政の補完スキームなどではなく、地球規模での人類社会における真の〝公共性〟が求められている。それは名前だけの〝公共性〟ではなく、湧き上がる ように、熱く求められ、広く支持される公共性だ。 「公共性」や「公共事業」という言葉が、胡散臭く、懐疑的に語られるようになってしまっ た。その大きな理由は、自分たちが本当に必要とする公共性を、自分たちも担い、自分たちも〝公共性〟を作っていく一員なの だ、という基本的なところが見えなくなってしまった。これまで、市民も〝公共性〟を作る重要な一員なのだという経験がなかったこと、また意識は あっても実現できる回路に乏しかったこと、つまり、自分たちが〝公共性〟の形成に関与してこなかったからである。

フランス革命後、1989年にベルリンの壁が崩壊し、世界の様相を一変させたことはさまざまな意味で象徴的な出来事であった。国家と個人の中間にある様々な自発的結社を軸にしながら新しい展開を遂げることとなった。「国家にも市場にも属さない自発的結社が形成するネットワーク」として市民社会を理解することが一般化しされ、フランス革命が追い求めた「近代という未完のプロジェクト」は、その200年後に国家と個人の中間にある様々な自発的結社を軸にしながら新しい展開を遂げることとなった。皮肉にも、1980年代末に東欧革命を推進した最大の勢力は、「社会主義」体制のもとで抑圧されてきた市民的諸団体に結集する市民たちのネットワークであり、これらの中間集団が担う「社会運動の力」がフランス革命の精神に新たな息吹を吹き込むこととなったのである。


『世界中で、形式的な公共性か ら、実質的な公共性への転換が必要だと論議されています。それが「公共性の構造転換」 (ドイツの社会学者ハバーマスの言葉)です。ハーバーマスは、『公共性の構造転換』「1990年新版への序言」で、一連の東欧革命の展開を「市民社会の再発見」と呼び、次のように述べている。「『市民社会』の制度的核心をなすのは、自由な意思に基づく非国家的・非経済的な結合関係である。もっぱら順不同にいくつかの例をあげれば、教会、文化的なサークル、学術団体をはじめとして、独立したメディア、スポーツ団体、レクリエーション団体、弁論クラブ、市民フォーラム、市民運動があり、さらに同業組合、政党、労働組合、オールタナティブな施設にまで及ぶ」(ハーバーマス 1990=1994;P. XXXVIII)。』



〝市民社会〟は国家のような秩序はないけれどその分エネルギーがある。


ヘーゲルの〝市民社会〟は市場を前提にしており、かつ国家に収斂するという難点を有している。ハーバーマスは、市場とは異なる公共圏としての〝市民社会〟概念を提起し、国家に対抗する存在としてとらえた。ジーン・コーエンやアンドリュー・アレイトは「市民社会と政治理論」の中で、国家、市場、市民社会をそれぞれ別のもとと考える「三項モデル」を提示する。つまり、国家でも市場でもない第三の領域としての〝市民社会〟が明確に定義づけられた。そして、その核にはハーバーマス同様、自立的な〝アソシエーション〟が据えられている。すでに自立性を獲得した市場の経済権力は、国家権力同様、社会的連帯や社会正義にとっての脅威となりうるからである。コーエンは、いわば〝市民社会〟は、国家や経済に対して影響を保持することによって、その機能を補完する役割を担うものといえる。だからこそ、コーエンらは現代市民社会論の特徴ともいえる社会運動を重視するのである。

公共性の転換が起こる理由

20 世紀から 21 世紀への大きな時代の転換点にあたり、新しい政治、新しい公共性、新しい社会が求 められている。そのベースは、市民の生活を支え、問題を解決し、市民生活をより豊かに支えていく ための新しい公共性である。「公共性の構造転換」が起こるのは、社会を構成する基礎単位である家族と地域が変わっているからである。この 数十年間に、日本では劇的に核家族化が進み、小家族化が進み、世界 でももっとも小子化が進んだ国になってしまった。高齢社会化はそのベースには家族構造の変化と小子化があり、その結果、人口構造が歪んでしまい、高齢化が急激に進むのである。 そして核家族化・小家族化が進むと、家族の果たせる機能はどんどん縮小し、子どもの教育の問題、高齢者の介護などの役割が果たせなくなる。したがって少子・高齢化への対策や施策には公共性を伴う。公的介護保険がその一例である。介護というとてもパーソナルな世界と公的なシステムとが結びつく必然性が生まれるのである。



社会的孤立と結社密度の低い国、日本


日本における社会的孤立度は高い。すなわち、友人、職場の同僚、宗教団体の仲間、スポーツ、ボランティアなど社会団体の仲間、という4つのカテゴリーの人たちすべてとの付き合いが、日常的に「ほとんどない」か「まったくない」と答えた人の比率は、日本の場合16.2%で、OECD・EU圏26ヶ国計の平均値7.1%の倍以上となっている。結社密度が高くなるほど、社会的孤立度指標は低くなる傾向がみられる。

とりわけ注目されるのは、格差社会であるアメリカは、もっとも結社密度の高い国という側面を持ち、市民縁が人々の社会的孤立を防いでいるとみられることである。自発的結社の国アメリカという建国以来の伝統は今もなお続いている。現代の日本社会は、家族という拠り所を失うと、一挙に孤立化のリスクにさらされてしまう傾向が強い。社会的孤立は、いまや単なるリスクではなく、老人の孤独死などに象徴されるように、現実のものになっている。単身世帯がいまや標準世帯となり、今後も増加の一途をたどると予想される日本は、放置すればますます寂しい国に成り果てていくかもしれない。



私たちは「働く人」が見えない不思議な空間[団地]を作ってきた。


日本社会においては地域社会は激変していき、かつてのような安定した地縁を基にした地域共同体は、多くの地 域で崩壊している。町内会自治会は全国に存在するが、その実態は形骸化している。これは、ひとつには、戦後の高度経済成長の過程で、日本の産業構造が 激変し、地域社会に定着しながら営む自営業や農業などの就業人口が激減し、人口の社会移動が激しい流動社会となり、地域社会との実質的なつながりに乏しい社会になっている。自営業や農業などの場合には、地域コミュニティは生活の場であるだけ でなく、仕事の場そのものだ。サラリーマンとなった人びとにとって、地域コミュニティは単なるベッド タウンにすぎなく、単に隣あって住んでいるだけで、関わり合う必要性も必然性もなくなったのだ。こ うなると、地域社会における相互扶助やふれあい・たすけあいなど、望むべくもなくなり、このよ うな地域のつながりが希薄化した殺伐とした住宅地が全国に広がると、地域コミュニティの中のサポートを必要とするひとり暮らし高齢者や、乳幼児や 介護を必要とする高齢者を抱えて夫婦共働きをしている人たちなどにしわ寄せがくるのである。

このように、人間の社会生活上の基礎である、家族や地域社会の、社会的機能がどんどん減少しつつあるのである。それを補い、サポートし、支援する仕組みがなければ、家族や地域社会はますますやせ細っていき、家族や地域社会が衰弱したら、社会の存立そのものが危うくなる。このような社会の変動期にあっては、家族や地域社会の実態の変化にあわせたパラダイムシフトが必要になり、それこそ人びとの望む新しい〝公共性〟ということになるのである。

家族や地域社会が、時代や社会の変化・変動へうまく適合しながら、その機能を回復していくような支援にこそ、〝公共性〟があると言うべきで、これこそ21世紀の公共性と言うべきなのである。そしてその〝公共性〟は、国や行政がではなく、官と民とが協働して、変化する社会が必要な〝公共性〟をともに定義しながら作っていくことこそ必要なのだ。またそうした公共性でないと、これからの時代、社会から望まれ支援される「正当性ある公共性」に転換しないことになる。


日本においても1990年代初頭にはこうした世界の潮流を受けて、ポスト社会主義の時代における市民社会論が論壇を賑わせた。そして、1995年の阪神淡路大震災を契機とするボランティア活動への関心の高まりは、そうした活動を組織する自発的結社としての市民団体の興隆をもたらした。1998年特定非営利活動促進法(いわゆるNPO法)制定以降、市民団体への社会的認知は格段に進み、いまでは、「市民社会」という言葉が「市民諸団体」を意味するような国際的用語法も定着しつつある。


「官から民へ」とのスローガンのもと、多くの事業や施設が民間に委ねられる傾向にあるが、それは必ずしも民間企業にすべてを委ねることを意味しておらず、この場合の「民」とは、もっと幅広く、市民や中間団体をも包含し、政府は「新しい公共」と名づけ、新たな社会の担い手として期待しているのだ。

国家という組織は、強制力はあるが、柔軟性に欠ける。法律や予算に縛られていることから、なかなか柔軟な対応ができない。他方で現代社会においては、スピードを含め柔軟な対応が要求される頻度が増している。

そこで機能不全に陥る国家に代わって、市民や結社の手により、より多くの人が共有することができるようになるためには、柔軟性が求められているというわけである。

しかし、現実的は、なかなかそうした選択肢が根付かない。NPOで働いていては生活できないとか、官製NPOがワーキングプアを生みだしている指摘さえある。たしかに、一つの要因として、日本にNPOが根付かない最大の理由は待遇にあるのは事実である。さらに、行政が財政を削減するために、NPOを隠れ蓑にしているような官製ワーキングプアの問題も実態も様々に発生している。



NPOと行政の協働 ~多様な社会サービス供給の問題点~


本来であれば、その現実的な選択肢の一つに、民間非営利 組織(NPO)が担う公共性形成機能があげられるが、協働といいながらも実質NPOが行政の下請けになっているのが現実である。下請け化とは、行 政の仕事がそのまま委託先に依頼されるが、権限は行政側に維持されていることである。そして受 託側は受託条件に不都合を感じても、受託することを最優先にするために断ることができない状態 なのである。つまり、行政は権限を握ったまま業務を外部に依頼し、それを受託する側は委託条件 に不満を感じていても断れないのである。

またNPOを隠れみのにした犯罪が後を絶たない。大半のNPOは善意に基づくボランティア活動などで社会に貢献しているが、クリーンなイメージと緩やかな設立要件に目を付け、詐欺などに悪用するケースも目立つ。制度発足から20年。運営や認証時のチェック体制の見直しも求められている。

日本の公共性のあり方へのひとつの示唆として、アメリカにおける NPOの役割は注目すべきだが、近年のアメリカにおいても、伝統的に合 衆国の民主主義を草の根で支えていると言われてきた、教会、PTA、労働組 合、civic association と呼ばれる公共的団体などに所属する人が低下している 一方で、カルト的な宗教団体、反自由主義的・反民主主義的な集団の増殖傾向がみられる。こうした状況は、市民社会そのものの危機ともとらえうる。



NPOの限界と〝新しい公共〟の限界。


官・民が協力して、あるいは官・民・企業が恊働して美しい活動を行うのは一見、理想のようだが、本来のNPOの理念を理解するならば、そのようなケースはあり得ないのである。また、日本には官製NPO、あるいは企業のひも付き、あるいは市民を隠れ蓑にしたブラックNPOなどが併存している。

本来、NPO(NGO)の存在意義は、中央集権を排除し、護送船団行政の無理無駄を切り捨てる手段であり、民主主義の理念に基づいた市民参加を最適なコストパフォーマンスで実現する手段でなければならない。そういう意味では、日本には、未だ本当のNPO(NGO)はひとつも存在しない。現状のNPOのほとんどの関心は行政からの委託金の話であり、「とても安い人件費単価で行政から委託を引き受けているのだが、不満である」というものばかりだ。

公共性の担い手として自律するよりも行政への依存だけが目的化しているような感じを否めず、公的資金への依存度が異常に高いのである。行政からの委託事業を行なうことで、「御墨付き効果」や安心感を得られるのではないだろうか。行政とのつきあいが社会的信用の担保だと考えるNPOは多く存在するのが現実である。

厳しい言い方をすれば、NPOの急増は市民活動の高揚や民主主義の発展につながっていないのが現状である。日本社会はいま、様々な分野にわたって「劣化」が進行しており、人権・環境・コミュニティ・公共といったHECPに基づく、民主主義や立憲主義もおびやかされている。

しかし、2万7000を超えるNPOのうちこのような本質的な問題にとりくんでいるのはほとんど存在しないといってもいい状況であり、むしろ、NPO団体の増加と比例するように日本社会のますます劣化が進行しているといっても過言ではない。



アメリカの原点と公共性の形成〜


アメリカにおける公共性は、政府や行政が与える公共性ではなく、地域コミュニティのなかで、アソ シエーションや NPO を通じて形成されてくるものである。

アメリカのNPOの特徴は、まず第一に、市民の多様なニーズを代表・代弁しているということにある。 NPO は、マイノリティ(社会的 少数者集団)のニーズを代表・代弁する機能を持っている。声をあ げにくいマイノリティの意見やニーズを代弁・代表する。 AARP では「高齢者」の多様なニーズを代表している。AARP は、会員数も多く、 の高齢者のニーズを広く把握した上で、それを政策へと媒介させようとしている。 これは「高齢者」という代表されることの少なかった社会層を代表で きるということには新しい公共性が認められるのである。女性団体(フェミニズムの団体など)やマイノリ ティ(黒人やアジア系の団体、同性愛者の団体など)、エスニシティ(移民してきた様々な少数人種や 民族を代表する団体)についても同様だ。マジョリティのニーズにだけ公共性があるわけではありま せん。多様なグループ、多様なエスニシティ、多様な価値観や生き方をもつ人びとが、共存できる社会 システムの形成にこそ公共性が宿るという考え方が底流にあるのである。

第二に、社会から求められるサービスを提供する。理念や理想だけ高くても、その団体が社会から「支持」されていなければ、その団体の活動に公共性 があるとは認められないのがアメリカ社会である。では社会から「支持」とは、アメリカの NPO システムでは、それを「幅広く寄付金が集まっているかどうか」(パブリック・サポートテスト)で判断している。少数の寄付者だけが運営活動 資金を提供してなりたっている NPO は、どんなに素晴らしい活動をしていても、そこに「公共性」が 認められることはない。

第三に、多様な個人が公共性と関わり、公共性 を作っていくチャンネル(経路)を提供している。 アメリカは個人主義の国だ。個人が自由に意見を表明する権利をもっとも基本的な人権 として憲法で謳っている国なのだ。多様な個人が主張しあう社会の中だからこそ、アソシエーションが重要な役割を果たしてきたのである。 NPO は、個人が、アソシエーションの仕組みを通して、社会の他の組織や機関と連携 しながら、ともに公共性を担っていく社会的なチャンネル(経路)を提供しているのです。

アメリカは短期間のうちに、多様な人びとが、様々な社会実験をして社会を形成して来た国です。多 様な人びとが多様な価値観や宗教を持ちながら一つの社会で共存してきた。多くの失敗や問題も抱 えながら、問題解決を目指している。多様な人種や宗教が混在し、単一の形式的 な公共性というものは意味を持たない。複数の多様な公共性がある、という実質的な公共性を作って きたのであり、そして複数の変化する多様な公共性を作っていく仕組みを内蔵しているのである。アメリカの歴史の原点をみると、 アメリカ社会が、どのように公共性を形成してきたかがよくわかる。 それは、市民から形成されていった公共性の歴史です。市民がどのように公共性の形成に関与したか。 そこがまさに重要であり、NPOこそがアメリカの地域社会の公共性を形成してきたといっても過言ではない。



米国最大の高齢者NPOーAARP

「奉仕されるのではなく奉仕しよう」(To serve, not to be served.)


アメリカが社会貢献の先進国と呼ばれる理由としては、NPOの数や規模、寄付金額 が圧倒的に多いことや、また、NPOの社会的なステータスが企業と同等に高いという ことが挙げられる。その象徴的な例として、アメリカの就職人気ランキングを挙げるこ とができるだろう。国際コンサルティング会社Universumによる2013年アメリカ大学 生の文系就職先の人気ランキングでは、図表1のとおり、トップ20に3つのNPOが入 っている(なお、教育NPOのTeach For Americaは、2010年の同ランキングでは1位 であった)。現在の日本では想像できないことであるが、この事実はアメリカにおいて NPOが就職先の選択肢として定着していることを示している。米国には草の根運動で社会を変革しようという人々のパワーがあふれている。それは高齢者にとっても例外ではない。米国最大の高齢者NPOであるAARPの活動は、「NPO的な活動」と「商業事業的な活動」に大別される。 活動は、「奉仕される側でなく、奉仕する側に~to serve、 not to be served~」の理念のもと地域会員ボランティアを中心に展開されており、ボランティア参加型の地域活動プログラムと位置付けられている。AARPの目的は、①高齢者個々人の生活の質を高めること、②高齢者個々人の自立・尊厳・目的を助長すること、③高齢であることのイメージを改善することの3つからなる。

米国社会では「サクセスフル・エイジング」「プロダクティブ・エイジング」「エイジレス・セルフ」である(あり続ける)ことが賞揚されるため、米国の高齢者は自らが活動的で自立的な主体的高齢者であることを存在証明しようと躍起になる。つまり、米国社会においては老年期のアイデンティティは「活動的・自立的・主体的」であるかのようにセルフ・マネージメントすることで何とか保持されるものとなっているのである。換言すれば、マクロレベルの「高齢者福祉政策」とミクロレベルの「高齢者のアイデンティティ」とは、一見すると無関連のように見えるが、その実、上記のように高齢者福祉政策をめぐるポリティックスの収束点として「理想なる高齢者像」が政治的に嵌入されるのである。

AARPはこの団体の設立は 40 数年前(1958 年)だが、またたくまに全米の高齢者の ニーズをキャッチして、会員数 3400 万人を擁する世界最大級の NPO になった。公共サービスを担う一翼になっているだけでなく、全 米の高齢者を代表して議会や政府にも提言・提案している。また、全米各州の議会や政府が、どのような高齢者政策を作るのか監視するのも重要な役割である。政府や 議会としても、高齢者政策形成過程に、NPO が深く関与しているわけだ。しかし数を頼ん だ政治力という手法をとっているわけではない。アメリカで普通 NPO といえば、決して利害団体や圧力団体ではなく、ひろく 社会全体の公共の福祉の向上に資する活動を提供した開かれた団体でなければならない。今日、世界 的に注目されている NPO は、民間の非営利でありながら、量的にも質的にも幅広く社会の公共サービ スを提供できる新しい担い手としての NPO に他ならないのだ。



行政区分や伝統的地理境界を超えたネットワーク社会の

地理学とJeff Jarvisの提唱するパブリックネス。


テクノロジーの進展によって、生活はますます便利になり、他人に頼る必然性が薄れてくる。そうしたライフスタイルの変化も個人主義化を加速させていったのである。コミュニティが崩壊し、個人主義化していく現象は、現代社会の必然といっても過言ではない。グローバリゼーションといわれるように、戦後世界は加速度的に一体化してきた。いまや世界中が個人主義化し、市場主義化してきたのである。

社会は将来を見据えることで、限界が近づいて来ていることを知り、限界との衝突を避けるための予防策を取ることができる。少なくとも理論上は解決できる。しかし、実際に解決するのは難しい。なぜなら、将来を見据えた政策というものは、たいてい明日のために今日を犠牲することを求めるからだ。懸命な政策は、短期的に利益を上げることを狙った拡大を阻もうとするからだ。短期的視野に立つ有権者が力を持つ民主主義社会や、短期的な利益を追求する投資家が支配する自由市場において、そうした、政策を遂行するのは難しい。

コミュニティとは「地域性」と「共同性」の二つを特性とする人々の集団と定義するかつてのコミュニティは地縁で結びついた、いわば地縁型コミュニティであった。これに対して、最近では地域の崩壊と共に、パブリックネスのコミュニティが台頭してきている。問題はそのようなコミュニティをつくるためのコンセンサスをどのようにして得ていくのかという点である。そのためにはHECPを中心としたコミュニティをつくるための柱となる思想を構築する必要がある。HECPではコミュニティにおける「シェア」や「ケア」を実現するための思想核とSTANDが実存する。そのためには、パブリックネスというシェア概念や「スタンド」という思想核というドラスティックな意識の変革が必要になってくる。「スタンド」とは、個の「自立」と「覚悟」の概念だ。今後、世界中の紛争地区被災地区で群発的に「スタンド」がわき起こる。


◎pub・lic・ness〈パブリックネス〉

【1】情報・思考・行動をシェアする行為、またはそれらをシェアしている状態。

【2】人を集めること、または人・アイデア・大義・ニーズの周りに集まること。つまり〈パブリック〉を形成すること。

【3】周囲とコラボレーションするために、プロセスをオープンにすること。

【4】オープンであることの倫理。


『今後数十年間で、人々の心の中に地球規模の意識が出現するであろう。その本質や大きさは今のところ分からないが、数年後には、世界は距離がなくなり、クラウド・シンキングのその新たな意識は、私たちに論理的な結論をもたらすだけでなく、他の人々のタスク(行動)を通じて、世界中で群発的に発生する。「スタンド」という運動は別に誰かが「そうしよう」と決めるわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものである。

地球の裏側の出来事と私たちの日常生活が結びついていることを、今ほど鮮烈に実感できる時代はない。

HECPにおける「人権」や「環境」、コミュニティ」、「公共」などがそれぞれに対立する社会そのもののあり方が見直される時代にきている。本来、「人権」と「公共」は同じベクトルに存在すべきであり、それを公理とするためには「人権=人として」という解釈の変更が必要になってくる。“Human Rights”ではなく、“Human duty”として、自己の「スタンド」の実存が問われているのである。

パラダイム・シフトとは、個の逆転である。「人には、劇的に考え方や感性が変わる瞬間がある。」それまでの常識が一気に覆り、新しく目が覚めたような気分になる。このような体験を、パラダイム・シフトと呼ぶ。単なるきっかけがあったり動機を備えていたりするだけでは、人はそう変われないものである。パラダイム・シフトはもっと強力で不可逆的だ。



家と地区の共同体を再構築するのは、無名、非権威の「新層高齢者」だ。

現役世代の人間に、これ以上の負荷をかけるわけにいかない。


共同体の構築に関しては、理想ではあらゆる層の人の参画が望ましい。そのために、参加を義務したり、半強制的な市民参画を求めるのは、その主旨から本末転倒であると言える。しかし、現役世代のサラリーマンや子育て世代のお母さんは日々の仕事や家事・子育てなどにより、参画できないのが実情である。

そこで登場するのが、「高齢者」である。それも、無名で非権威の高齢者である。

非権威の高齢者とは、今までの権威や特権、しがらみをふるいにかけて断捨離を行なう。そして、「人は一般に年を取るにつれ、保守的になり、変化を嫌い、安楽に過ごしたいという気持ちが強くなる。それを最も排除しなければならない」ということである。日本を見渡せば、多くの高齢者がすることもなく毎日のように病院に時間つぶしに通っている現実もあり、そのことが医療費の拡大となり、国の予算を圧迫している。「気は病から」と言い、「恐れず挑戦する」姿勢でスポーツ、レクリエーション、リゾートに代わり、共同体の構築という社会貢献に活動していけば、高齢者自身にとっても、健康維持に繋がり、精神的な健全さが生まれることにもなる。

運動の中核は、有権者と政治家が同意するずっと前に、将来を見据えた行動を起こさなければならないと考えている無名の非権威の「高齢者」の人々だ。持続可能性を高めようとするロマン主義と圧倒的ヒューマニズムの溢れる、個性豊かな人々だ。従来の政党・結社・NPOとは違い、世界各地の相互に無関係なエリアで群発的に発生する紛争や災害という謂れのない苦難に対して、パブリックネスに同じ行動を取る。それが「スタンド」である。これから起きようとしているのはそれである。近代の立憲民主制では、市民たちが異なった価値観・世界観を持っていることが前提になっている。そうした、深いレベルでの一致を無理に目指すことなく、お互いの価値観・世界観に対しては干渉せず、共通の利益に関わる公的事柄に関してのみ一定のルールの下で集団的自己統治を行う、「スタンド」を思想核としたHECPという共同体である。



世界を変革する、「新層高齢者」の登場。


「新層高齢者」とは1956年2月21日以降生まれの60歳以上の「断層の世代」、いわゆる「シラケ世代」の人々と定義する。 また、「ゆとり世代」の親世代でもある。無気力・無関心・無責任の三無主義の走りと言われるこの世代は反面において、優れた感性を秘めている。この「新層高齢者」は、人生において戦争や貧困、革命や暴動などの歴史的にドラスティックな局面のリアル体験がない。政治的には何となく憲法9条が永久平和憲法であるようなイメージやドグマを持ち、高度経済成長やバブル経済を経験する中で育ってきた。しかし、今回の安保法制の問題や3.11東北大震災などの体験を通して、地球環境や世界における平和、人権、公共意識などの国や社会の大きなテーマについての問題意識が心の内側に燻った未消化の大きなマグマのように存在するようになってきている。そして、人生において、一度は自らの行動により世界が大きく動く瞬間に立会いたいという潜在的願望を描いている。また、統計的にも60歳以上の場合、社会活動・ボランティア活動に「積極的に参加したい」人の割合は、女性より男性の方が活動への参加意欲が高い。このため、男性高齢者に対しては、社会貢献や社会のスキームの変革というような「大きなモチベーション」を実際の活動に結び付ける視点が重要になってくる。

「The Fearless 50 - The Most Innovative Americans over Fifty(最も革新的な50歳以上のアメリカ人)」には「最も革新的」というタイトルの脇には、Risk-taking(リスクをとった)、Quantum-leaping(大きな改善を行った)、Status quo-shaking(現状を打破した)、Mind-bending(精神性に影響を及ぼした)、Soul-stirring(魂を揺さぶった)、World-changing(社会を変革した)という言葉が添えられている。

「スタンド」は高齢者が、地域社会の主役となり、自らの経済的自立だけではなく、高齢者どうしの見守りなどによる地域社会との恊働を積極的深め、得た情報やノウハウは、国や行政を通すこと無く、高齢者自身の手により直接的に、より貧困や疲弊の厳しい地区に向けてリレーショナルに社会貢献して行く志の高い運動である。高齢者のそうした取り組みにより、財政再建、地方再生、 空き家問題、限界集落、震災復興など日本が抱える社会問題が全て一気に解決し、こうした取り組みは世界から大きな賞賛を受け、その結果、日本のプレゼンスは大いに高まることとなる。

そして、日本のオルタナティブカルチャーに共感するという数億人の「ジャパン支持者」を世界中に作りだし、今後の日本は、軍事力や経済力は衰えても、芸術や文化には創造的であり続ける可能性を導き出す。「日本の復元力」を無名の高齢者たちが担うことになるのだ。

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