Incomplete


ショーク展ー

リボットクエストにおける、〝Incomplete〟と〝Assemblage〟



「現代社会は完全神話を信じ込んでいる。」


しかし、「完全なるもの」はこの世に存在せず、「完全」「不完全」の概念は連続的でスペクトラムな状態で存在している。


ワシントンのフリーア美術館所蔵 100年以上前の日本の楽焼きの作品がある。陶工がつまんだ指の跡が残っており、100年の間に 割れた形跡も残っている。修復した職人は 割れ目を隠すのではなく 金蒔絵を施して 割れ目を強調したのである。楽焼における金継ぎと言う技法である。割れたり欠けたりした陶磁器を漆(うるし)で接着し、継ぎ目に金や銀、白金などの粉を蒔(ま)いて飾る、日本独自の修理法で、修理後の継ぎ目を「景色」と称し、破損前と異なる趣を楽しむ。この茶碗は一度割れたことにより 作られた時より なお一層美しくなったのだ。 この割れ目は創造と破壊 コントロールと受け入れ 修復と 新しいものを作り出すこと 私たちは皆 その循環の中で生きているのだということを伝えている。


哲学者のフランシス・ベイコンが次のように言っている。西欧の伝統的な美意識には黄金比に起源するプロポーションの観念があり、それは反面、階調であるがゆえに退屈で魅力を感じない。むしろプロポーションが少し乱れたり、歪んだり、傾いたりしているところにこそ、本当の美がある、という積極的なアプローチが必要である。


日本では伝統的な美意識による既成のプロポーションの観念やコンプレックスも強く、「新品崇拝」も合わせて「古いもの」、「傷のついたもの」、「壊れたもの」には非寛容で、一部、「リメイク」や「アップサイクル」の「旨味」が理解できる人間が少ないのが現状である。それは時として問題の本質を隠蔽し、本当に大事なことを見失うことになる。


ショークのリボットは、不完全な素材形状を不統一なパーツアッセンブリを自由に動かし、組み替えることができる。この性質をふんだんに利用し、生み出されたのがあの奇妙な身体をもつ〝リボット〟の数々だったのである。〝リボット〟の身体は奇妙さはもちろんだが、ユ ーモラスな感じも与えられている。ショークの作品の数々は概して、「幼稚」で「プリミティブ」なものとして 消費されているようだが、それは作家の意図するところからは微妙にずれてい るとはいえない。それならば、ショークによるあの奇妙な身体の〝リボット〟は不完全であることの正当性を表象している。「完全」という概念に対して、〝リボット〟という直接的には社会的有用性のない「オブジェ」雑貨 を生み出すという皮肉をきかせたものだった。「表向きは不完全と称されているものこそが、じつは悦楽」であり、それこそが「完全な有用を目的とする場合に必ずついてまわる不快の感情を追い払ってくれ、 好奇心にそって表通りを外れた横道のかずかずを教えてくれる」のだという。 存在そのものに意味を求める多くの〝リボット〟は人間の身体から大きく異なった形態をしているが、そこに身体パーツが含ま れていることからそれが人間を模したものだと理解することができる。



〝アッサンブラージュ〟とは「寄せ集めること、未完全であること」である。


〝アッサンブラージュ〟は、芸術を生命運動として捉えたフラクタルでスペクトラムな〝断片〟だ。芸術の世界において、本当の〝オリジナル〟を表象作家などほんの一握りに過ぎない。生活の中のありきたりの〝断片〟に込められた意味を寄せ集め、新たな〝断片〟を映し出すことで観客に真実を知らせることが〝アッサンブラージュ〟の役割でなのである。

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