HECPのスタンド原理[2]


高齢化問題には二つの「恐怖」が存在する。



多くの場合、もっとも恐ろしいのは仕事を失う「恐怖」であり、失業すれば生き延びることができなくなるという「恐怖」である。そして、もうひとつ、は「孤独」であり、ひとりでは生き延びることができなくなるという「恐怖」である。しかし、HECPの「解答」は極めてシンプルであり、〝The region〟においては、この問題はすでに「解決」している。




「蓄積」の道具として貨幣の利用を禁止し、「思考」と「表象」の次元を圧倒的に高めることによって「孤独」は「孤高」へと昇華されていく。


私たちに必要なのは。情報やコミュニケーションではなく、思考に必要な沈黙である。

しかし、沈黙は現実に対する目的ではなく、言うに値する何かを持つことなのだ。換言すれば、政治行動と解放の問題においてもっとも重要なのは、情報、コミュニケーション、表現の量ではなく、むしろそれらの質なのである。

スマートフォンやワイヤレス接続があればどこでも行くことができるが、どこへ行っても変わらず仕事をしつづけることになる。すぐさま気づくように、それが意味するのは、どこへ行こうがつねに仕事中であるということなのだ。メディア化は労働と生活の区分をますます曖昧なものにする主要因なのである。

昨今の経済的・金融的危機によって、きわめて多くの人びとのあいだで別種の恐怖が高まっている。そして多くの場合、もっとも恐ろしいのは仕事を失う恐怖であり、失業すれば生き延びることができなくなるという恐怖である。立派な労働者にならなければならない。雇用者に忠実で、ストライキを起こすことのない労働者にならなければならない。さもなければ、あなたは仕事を失い借金を返済できなくなるだろう、というわけである。

こうあるべきだという理想的なかたちで万事が機能し、政治的代表制が明瞭な透明性と完全性によって特徴づけられていたとしても、代表制は、それ自体が定義上、権力から人びとと切り離すメカニズム、すなわち命令する人びとから命令される人びとを切り離すメカニズムにほかならないのである。

 カール・シュミットが指摘するように、代表するということは、不在を現前化すること、つまり、実際には存在していない。(=誰でもない)者を現前化することを意味する。シュミットの結論は、ルソーの諸々の前提と完全に一致しており、またそれらの前提そのものが、合衆国憲法やフランス革命の諸憲法のなかで具体的に表現されている。代表制の逆説は完璧なものだ。代表制がこれほど長い間機能してきたということだけでも驚きであり、また、その空虚さのなかで、権力者、冨の所有者、情報の生産者たちの意志や、迷信や暴力を説きつつ、恐れをかき立てようとする者たちの意志によって代表制が支えられ、ここまで機能してきたということも同様に驚くべきことなのである。



代表制が失効する


だが今日、仮に私たちが代表制という近代の神話を信じ、それを民主主義の媒介手段として受け容れるとしても、代表制を可能にする政治的文脈は根本的に縮減されてしまった。代表制のシステムはそもそもナショナルなレベルで構築されたものなので、グローバルな権力構造の出現が代表制を劇的に掘り崩しているのだ。新しいグローバルな諸制度は、人びとの意志を代表することすらほとんどない。政策協定や事業契約は、グローバル・ガバナンスの構造の内側で、つまり国民国家に属するあらゆる代表制の能力の外側で調印され、署名され、保証される。「国家なき憲法」が現に存在しているか否かを問わず、かつての代表制は「社会契約や一般意思という」ごまかしの手法で人民を権力に就かせるというふりをしていたが、こうしたグローバルな領域においてその機能がもはや何の効力も有していないことは確実である。

では、もう一方の代表されたものはどうか。こうしたグローバルな文脈のなかで、市民としてのその資格や特性のうち、いったい何がまだ残されているのか?代表されたものは、もはや積極的に政治生活に参加することなく、気がつけば社会的生活という現在のジャングルのなかで独りで闘う、貧者のなかの貧者になっている。もし生き生きした感覚が呼び起されなければ、そしてその民主主義への衝動に目覚めなければ、代表された者は、もはや市民ー労働者に言及することもない、権力の純粋の生産物、ガバナンスのメカニズムの空虚な殻となってしまうだろう。したがって、代表された者は、他の主体形象と同じようにごまかしや神秘化の所産である。代表された者は実行的な政治家活動へのアクセスを阻まれているのだ。



代表制から民主主義へ


2011年に起きた数多くの運動は、代表制の政治行動と諸形態に批判の矛先を向けている。なぜなら、たとえ代表制が効力を有しているとしても、じつのところそれは民主主義を強化するどころか阻止しているということを、それらの運動ははっきりと認識しているからだ。こうした認識を踏まえて、それらの運動は問うー民主主義というプロジェクトはいったいどこに行ってしまったのか?私たちはどうすればふたたびそのプロジェクトに積極的に参加することができるのか?市民ー労働者の政治権力を取り戻す(というよりも、実際には初めてそれを実現する)ということは何を意味するのか?

2011年の運動が教示するひとつの道筋は、本章で私たちが概観した、貧困化され潜勢力を殺がれた主体形象に抗して、叛乱と叛逆を引き起こすことによって開かれる。民主主義が実現するのは、この道筋をしっかりと把握し、定めることのできる主体が現れ出るときだけなのである。

新自由主義が社会、経済、政治にもたらした生のさまざまな変容は、たんにそれが生み出した主体を無力化し、貧困化したわけではない。今日のプロレタリアアートが経験している貧困化は、実際にはマルクスとフリードヒ・エンゲルスが理論化したように、賃金の低下や個人的・集団的生活における物質的資源の枯渇であるばかりか、私たち人間としての潜在能力、とりわけ私たちが政治的に行動するための潜在能力を(ますます)剥奪してもいる。

一例として、ハンナ・アーレントをあげよう。というのも彼女は、資本主義が勝ち誇った時代に人間の活動の潜勢力がこのように一般的に切り詰められることを十分に理解し、予測していたからだ。事実、私たちがここに記してきた昨今の諸現象をアーレントが精察することができたなら、人間的な活動が縮減されるプロセスについて、そして「活動」という水あkらの概念について、彼女はさらに理解を深めることができただろう。いまや「活動」という概念は資本主義時代の、搾取され、官僚化された労働の、活力を奪う過酷な側面とは違う側面をたんに指し示すだけのものではない。そればかりではなくこの概念は、仕事と搾取のそうした状況を横断的に覆す、生きた好機(カイロス)、つまり抵抗の好機でもありうるのだ。

負債の重みに打ちひしがれ、催眠術にかかったようにテレビの画面に夢中になり、自宅を監獄化してしまったとき、人は資本主義の危機がどれほど個人を孤立させ、人間の情熱パッション(=情念)を歪めているかを実感する。そのとき人は自分が孤独であり、潜勢力も奪われていることをはっきりと思い知るのだ。

けれども、まわりを見渡せばすぐに、結果としてこの危機が、ともに生きる条件を生み出していることにも気づくだろう。危機のなかで、借金を負わされた状況、メディアに繋ぎとめられた状況、セキュリティに縛りつけられた状況、代表された状況は、私たちが集合的に存在する条件を示しているのだ。たしかに、

別の選択肢(オルタナティブ)は存在しないのかもしれない。私たちはタイタニック号のデッキにたたずんでいる。個々人の特異性からなる力能は貧弱にされ、縮減され、その結果、私たちは生は陰鬱で、互いに無関心で差異のないものになってしまっている。けれども私たちは、いまここで、ともに存在している。共同体を生み出す好機と同じく、抵抗を生み出す好機もここにあるのだ。

私たちは、疲弊化や貧弱化、悲惨、孤独という状態から自らを解放するためには闘わなければならない。だが、どのように始めることができるのであろうか?ドゥルーズはニーチェを解釈してこう述べている。潜勢力を奪われた主体とは、「自分が為しうることから分離された力」のことである。、と。私たちはあ(政治的な)活動と、ともに存在することとを、ふたたび接続するような力を見出さなければならない。たとえば、憤激は個人の苦痛を表現しているのわけだが、それは、孤立した抵抗のなかですら「ともに存在する」ということを暗示しているのである。

「ともに存在する」ということは、特異なものへと生成変化することだ。なぜなら、特異なものになることは、個人化されることとは対照的に、ともに存在する主体の力をふたたび見出すことを意味しているからである。特異なものとなった主体性が発見するのは、他の特異性とともに集合的な主体性をふたたび合成することなしには、いかなる出来事も起こりえないということである。それはつまり、叛逆することなし特異な主体性がともに存在することはありえない、ということだ。したがって、特異化のプロセスは、ともに存在する状態に向かって開かれた自己肯定、自己価値創造、主体的な決断として、具体化(=肉体化)されることになる。すべての政治運動はこのようにして誕生するのである。まず、(悲惨や孤独をもたらす状況から自らを)きっぱりと切断するという決断を下し、それから(他の諸々の特異な主体性と)とともに活動するという提案へと向かうのだ。』

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