日本国民は「沖縄の声」を正面から真摯に受け止めなければならない。
沖縄の問題は「日本政府」の問題ではなく、「日本国民」の問題なのである。
戦後日本社会の「平和」とは何を指すのか
米軍は米兵らが凶悪事件を起こすたびに再発防止に努めるとする。だが、守られたためしがないことは今回の事件が証明する。 基地ある限り、犠牲者が今後も出る恐れは否定できない。
「基地撤去こそが最も有効な再発防止策である。」という声にどう応えるのか。
日米両政府だけでなく日本国民はそのことを深く認識しすべきである。ハンナ・アーレントをして、アイヒマンは法に従っただけであると述べ、彼を「あまりに凡庸」と形容し、「人々は従った。それこそが問題なのだ。」ということの確からしさが分かる。そういえば、アイヒマン裁判で裁判官がアイヒマンの「命令(法)に従っただけだ」という声に対し「"市民の良心"があれば違ったのではないか」と問うた。いわゆる、「市民的勇気」と呼ばれるものである。日本国民は、沖縄の問題をいつまでアメリカと日本の「政府」の問題にすり替えるのだろうか。
ジョン・ロールズの正義の原理
第一原理 「平等な自由」
正義とは、ロールズの定義によれば、二つの原理からなっている。その第一原理は、平等な自由ということだ。これは、人々は、他人の自由を侵害しない限り自分の自由を追求できる平等の権利を持っている、ということを含意しているが、これを沖縄に当てはめて考えると、どういうことになるか。沖縄には、日本にある米軍基地(常用基地)のうち七割以上が集中している。狭い土地にそれだけの基地があるおかげで、沖縄の人々は深刻な被害に日々悩んでいる。これが、正義の理念からして、著しく逸脱した事態だということは、言うまでもない。
沖縄の基地は地政学や軍略など軍事的理由ではなく、「許容できるところが沖縄にしかない」という政治的理由である。
軍事の専門家でもあり、民主党政権当時の森本敏防衛相は閣議後会見で、米軍普天間飛行場の移設先について「軍事的には沖縄でなくてもよいが、政治的に考えると沖縄が最適の地域だ」と述べ、名護市辺野古沖に移設する現行案は軍事的、地政学的でなく、政治的状況を優先して決定したとあらためて強調している。
また、森本氏は「例えば日本の西半分のどこかに、MAGTF(マグタフ=海兵空陸任務部隊)が完全に機能するような状態であれば、沖縄でなくてもよい。軍事的に言えばそうなる」と述べ、県外移設は可能だとしている。
沖縄ビジョンー闘わなかったものたち
鳩山氏の「最低でも県外」発言により、基地問題が複雑化し、日米同盟の信頼関係をも損なったというのが一般的な認識だが、元来、民主党には「沖縄ビジョン」と言うものがあり、その中で民主党はこと基地問題に関しては「沖縄米軍基地の大幅な縮小」と、「普天間基地の移転についても、県外移転の道を引き続き模索すべきで。。。戦略環境の変化を踏まえて、国外移転を目指す」とある 。しかし、これは「マニュフェスト」には盛り込まれず、民主党議員はそれを隠れ蓑に「最低でも県外」発言は鳩山氏の勇み足といった党内世論を形成していったのである。当時、知らぬ存ぜぬにより、特に当該の北澤俊美防衛大臣、岡田克也外務大臣、菅直人副総理・国家戦略担当大臣の顔が全く見えなかった。しかし、その「マニフェスト」も結果的に「政治的現実主義」の名の下に妥協と変節を繰り返し、世界観の欠落と政策基軸への信念や使命感の喪失により、自民党が主張していた政策に引き寄せられていった。 また、日本の政治家はこのような場合すぐに、外務官僚、防衛官僚などにその責任を転嫁するが、官僚側からしたら国外・県外案がいかに無謀な案だと解っているので、自らが積極的に動くはずがない。政権交代というのは本来ドラスティックな変革を実現することの意味であるはずなのにである。
地位協定は決して沖縄だけの問題ではなく、日米安保条約や地位協定が「憲法」の上位に定位されているという、とても独立国家とは思えない、なんとも奇妙な構造になっている。
日本の統治者たちはアメリカの国益を最優先的に配慮し、アメリカが要求してくる政策を限り迅速かつひたすら忠実に実行してきた。それをあたかも日本の国益のために自分の発意で、自己決定しているかのように見せかけようとするから支離滅裂でたちが悪い。そこまでわが国の統治構造は硬直化してしまった。残念だがこのような政治家が政治の舞台から完全に退場するまでの私たちには時間が必要である。仮に今アメリカが日本の国防を日本の主権に戻した場合、日本にはその主権を行使できるだけの力がない。
『安保法制がアメリカの戦争に日本が全面的にコミットすることを通じて対米自立を果すための「戦術的迂回」であり、アメリカ兵士の代わりに自衛隊員の命を差し出す。その代わりにアメリカは日本に対する主権を認めろというのなら、良否は別として話の筋目は通っている。』だが、安部首相の脳内では「戦争ができる国=主権国家」という等式が基本的な定義になっているようだ。「対米追従」という「忠誠」のポーズは当面は不可欠であるのは間違いないが、「対米追従」が目的化してはならない。安保法制や憲法の問題はその先にある「国家主権」を見据えた徹底した議論が必要なのである。
「改憲より地位協定改定」
「改憲より日米地位協定の改定が先だ。日米対等を目指すと言いながら、日米合同委員会では恐ろしいくらいの従属関係だ。」「辺野古問題でも『外交は国の専権だ』と言うなら、日本は本当に独立国家かという点まで議論しなければならない」過去にも、「米兵に暴行された女の子が道に捨てられ、犯人は無罪で本国に帰ったこともあった。こういった幾多の屈辱は県民は忘れようと思っても忘れられない。」
地位協定は決して沖縄だけの問題ではなく、日米安保条約や地位協定が憲法の上位に定位されてしまうという、独立法治国家としてはあるまじき、なんとも奇矯な構造になっている。愕然とするのは、最高裁判所が判断を放棄することによって、法治国家としての根拠を自ら奪い、「法の空白地帯(=適用除外)」を作り上げてしまったことである。こうなってくると、「日本は法治国家ではない」と言われても仕方が無い。
日米地位協定が、日本国憲法を含めた日本の法体系より上位にあるとり決めだということなのである。しかも、この協定は、安保条約よりも上位にあるとり決めでもある。
「日米基軸」という呪文によって、日本人は合従連衡の外交のビッグピクチャーを描くトレーニングをまったくしてこなかったのである。ここでアメリカ抜きで自前で国防をしなければならなくなったときに、東アジアの壮大な軍略構想を描けるような力をもった日本人はどこにもいないのである。
日本政府は、外交についても国防についても、エネルギーや食糧や医療についてさえ重要政策を自己決定する権限を持たされていない。アメリカの年次改革要望書や日米合同委員会などによる要求を忠実に具体化できるアメリカの国益を最優先的に配慮できる人間しか日本の統治システムの管理運営にかかわることのできる構造が70年かけて出来上がってしまった。
日米同盟は、戦後最大の外交資産だ。それは、日本だけではなく米国にとっても同様。東シナ海、シーレーンでの日米協力。衛星などを活用したインテリジェンス。対中国外交における日米連携。いずれは朝鮮半島の統一が両国の安全保障上の最重要課題など。在日米軍撤退後、矛の機能を持たない自衛隊のみでわが国の安全を守れるほど、東アジアの安全保障環境は生易しいものではない。
日本においては、戦争リスクと防衛コストの問題から、現実問題としては日米安保にならざるを得ないというような、こうした〝日米安保お花畑〟論があたかも正論であるかのような専門家のもっともらしい評論は、アメリカという「仕組み」に対する妄信と視野狭窄からくる、意識の指向性による意味づけと思い込みに過ぎない。
自主防衛コストは、貿易縮小などによる経済影響を含めて、約25兆円という試算もある。日米同盟コストに今の防衛関係費を加えても6・7兆円と比べると膨大な予算が必要になる。
しかし、国防を〝コストーベネフィット〟という図式で、その場その場の損得ばかり考える、「世界観」を持たない指導者や政治家は最終的には国益を損なう。現状の基地が本当全てに必要であり、米軍撤退により、膨大な防衛費が発生したとしても、それは日本国民が負担せざるを得ないのは独立国家としては当然である。
日米安保による共同防衛か、コストの増大でも自主防衛か、また死中に活を求める非武装中立がいいのか正解など誰にもわからない。専門家の予測はことごとく外れることを忘れてはならない。いずれの道を選択しても、日本人に真に平和を希求する理念や信念さえあれば、その知恵と技術によって、それぞれのやり方で平和を築くことは可能である。しかし、その平和は誰かの犠牲の上に成り立つものでなく、〝平等な平和〟でなければならないのは言うまでもない。
トランプが大統領になるかどうかは、すでに問題ではない。
トランプの台頭は、アメリカという〝場面〟で展開される〝エスタブリッシュ〟と〝マルチチュード〟の囲碁戦であり、アメリカ大統領は「チェス」の王様ではなく、トランプもヒラリー、サンダースも一つの「囲碁」の駒に過ぎないのだ。
「ドナルド・トランプ政権」が誕生した場合の国防に対する方向性は、 大きく分けて三つの選択肢がある。
・日米安保条約を堅持し、集団的自衛権をアメリカと共に行使する。
・日米安保条約を見直し、相応の費用で防衛を依頼する。
・日米安保条約の見直し、憲法9条を堅持し、個別的自衛権だけで日本を守る。
自民党政府高官は「政府内にパイプもない」、「日本政府は今まで以上に日米同盟は日米、アジア太平洋全体の利益になると強く確認し続ける努力をしていかなければならない」
「誰が大統領になっても同じだ。普遍的な絆に固く結ばれている両国だ」などと語っている。
すでに怖気付いている政治家に、真の独立と平和を見据えた憲法改正論議などできるはずはない。
「トランプ氏が大統領になれば、日本は貴国の主張に沿って、当然、日米安保同盟や日米地位協定は見直す。在日米軍の撤退を主張すれば、速やかに受け入れを表明し、貴国との友好は継続の上、自国の平和と独立を目的とした憲法論議を加速する」と表明べきなのである。
問題の解決に向けての、構成的プロセスの碁石を「囲んで」いかねばならない。
「チェス」の駒は、その役割に応じてコードに沿った動きをするが、これに対して「囲碁」の駒には戦線もコードもなく、戦略如何によって、いかなる地点にも出現しうる。「囲碁」の駒は、突然現れパラダイム・シフトを呼び起こすのである。
「日本がアメリカから一方的に見放される」のではなく、日本が能動的に「対米追従からの脱却」を果たし、「日本人自らが考え、選択する自主自立の国・社会」の可能性が開けるのかもしれない最大のチャンスがやってきた。これは日本政府の問題ではなく、日本人の問題なのだ。日本人 ひとりひとりが、〝トランプ大統領〟をテイクチャンスと捉える覚悟と問題意識の深さがとわれているのである。
沖縄の基地問題は決して日本政府の問題ではない、日本国民の問題なのである。もはや、政府や国会議員の体裁を気取った上っ面の見解など全く意味をなさない。最終的には日本国民一人一人の、「市民的勇気」が問われているのである。
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