高齢者の「愚青」ーRESOURCEsリソーシズ
HECPにおいては、無名の高齢者のことをResources〝リソーシズ〟と呼ぶ。
〝リソーシズ〟は「智慧ある者」という意味で、高齢者は長年の経験と智慧で社会に貢献する長年の「あれ」を持ち備えている、紛れのない「社会的資源」なのである。
現代には若者達の心を捉える「思想」と「実践」がない。今の若者達に、問題意識や考えがないというのは、戦後、「紙幣」と「娯楽」という心性を「平和」と「民主主義」という色褪せた思想にしがみつき、自分達が若者達を伝承できる「思想」を作り上げてこなかったことに尽きるのではないか。いつまでも「政治」や「社会」の責任にしていてもキリがない。私たち「高齢者」は、恥を知るべきである。
〝人類社会の理想〟の実現における主人公は、Resources〝リソーシズ〟である。Resources〝リソーシズ〟は平和を希求する〝世界理念〟実現のための小さな「碁石」であり、それは決して、「駄目」などではなく、状況を劇的に変化させる「捨て石」である。囲碁の駒は、突然現れる。突発的な権力行使によって、状況を劇的に変化させることが出来るのだ。Resources〝リソーシズ〟には、何ものにも囚われないリベラル(自由)がある。Resources〝リソーシズ〟が他から期待されるところは、善意の、誠心誠意の、私利私欲を離れての、かつ「深謀遠慮」としてのわがままであり、そして、何ものも恐れることのないラジカル(決死)がある。これこそがResources〝リソーシズ〟の本領なのである。
60歳の原点ー〝僕ら〟は相手がどう反撃していいかわからないような戦法で戦いたい。
〝僕ら〟が一番、自由なんだから。
〝僕ら〟にとって、残り時間は少ない。だから、から騒ぎしたり、争ったりする暇なんてないんだ。
〝僕ら〟にとって、仕事は元気のもとだね。仕事がなければ恐れと不安があるだけだよ。
〝僕ら〟の才能とは、自分に何かが出来ると信じることだ。ひとりで見る夢はただの夢、みんなで見る夢は現実になる。
〝僕ら〟は目を閉じて考える。目を開けてるから誤解が生じるんだ。
〝僕ら〟は人の言うことは気にしない。「こうすれば、ああ言われるだろう・・・」と気にすると、やりたいこともできずに死んでいくのだろう。
〝僕ら〟の人生とは、人生以外のことを夢中で考えているときにあるんだよ。
〝僕ら〟の人生は、〝僕ら〟の芸術なのさ。
〝僕ら〟は誰でも非凡な才能を持っているし、すべての人が美しいんだ。
〝僕ら〟の〝地区〟は、国土を持たず、国境を持たず、旅券もなく、ただ家があり、人がいる。
〝僕ら〟のメッセージがあるとすれば、泳ぎ方を学べということ。それだけ!泳げるようになったら、あとは泳ぐだけ。
〝僕ら〟は、お金を欲しがるかわりに、平和を欲しがろう、そのとき平和は実現するだろう。
平和を試してみよう!〝僕ら〟が言ってるのはそれだけだ。
「非権威ー受動的不服従」ー市民的レファレンダム
「非権威ー受動的不服従」とは、決して政治的に支配者を倒す権力闘争ではない、不合理な権威や社会的制度、慣習に従わない 「争わない、衝突しない、対決しない」市民的レファレンダムであり、社会文化の変革を求めるにあたって、思考と表象によって問題を解決する芸術運動である。法と税と暴力を通さない政治表現である。自己の思想に内在的な運動の抽象的な否定でない。そうした自己運動自体を具体的普遍たる全社会体系の変動の契機として積極的に捉える努力を試みることである。
無意識の世界で我々を規制している政治的なものの考え方の中でも一番基底にあるもの」が「権威信仰」だ。
「権威信仰」を支えるのは「既成事実への屈服」と「普遍の意識の欠如」を無意識の世界でコントロールされる多くのごく普通の人間である。われわれには「普遍的なもの」という観念はなかなか根づかない。なぜそうなのだろうか。
自由というのは非常に抽象的で、宙ぶらりんなのである。そんな状態から次々と選択して生きていかねばならない
自分で選ばない限り真の自由はないまた、自分の主体的な選択こそが、自己を変え、社会を変えるのだ。
実存が本質に先立ち、自己の選択が自己のあり方を決定する。
予算を背景にした施策は一見突破力があるが政治的制度的な改革には限界がある。特に高齢化問題や地方創生、教育・福祉などの分野や複合的共同体の創出は一朝一夕にはいかない。
粘り強く、いかなる妨害や弾圧に対しても決して屈せずにルーティーンの表現を以って、何世代を超えた変革の必要性を主張し続けることである。
世界の運動の潮流は抗議活動から、「生活の簡素さ」という新たな世界観を射程とした、〝オルタナティブ〟な構成的プロセスへと移行している。
個々人の特異性からなる力能は貧弱にされ、縮減され、その結果、私たちは生は陰鬱で、互いに無関心で差異のないものになってしまっている。けれども私たちは、いまここで、ともに存在している。共同体を生み出す好機と同じく、抵抗を生み出す好機もここにあるのだ。私たちは、疲弊化や貧弱化、悲惨、孤独という状態から自らを解放するためには闘わなければならない。
リソーシズは、貧乏を貧困ではなく、清貧と貧楽という「生活の簡素さ」を芸術の領域で創造し、不服従に対して科せられるあらゆる懲罰を甘受することを決議した。
私たちは、低周波で(声を落として)語っているのに、誰も気づいてくれない。今日においても、闘争に参加する人々は低い周波数で(一般には聞き取りにくい声で)コミュニケーションをとりあってる。メッセージの中には闘争に参加している人々にしか聞き取れないものもあるが、周波数の低い語りは開かれた放送波に乗せられて、すべての人々のものに届けられる。
リソーシズは「芸術」をスタティックな、シンボル的な、モニュメンタルな造形物として捉えるのをやめ、人間の動的なアクションのなかで考え、世界中で群発的に圧倒的なパラダイムシフトを呼び起こすことにある。
パラダイム・シフトとは、個の逆転である。「人には、劇的に考え方や感性が変わる瞬間がある。」
それまでの常識が一気に覆り、新しく目が覚めたような気分になる。このような体験を、パラダイム・シフトと呼ぶ。単なるきっかけがあったり動機を備えていたりするだけでは、人はそう変われないものである。パラダイム・シフトはもっと強力で不可逆的である。
リソーシズは、60歳を起算点として、普遍的な真実や自然の摂理に目を向け、不合理な権威や社会的制度、慣習に従わない 受動的不服従により、自らの意思で動く「決断層」になる。
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