日本社会は〝功利主義〟とどう向き合うのか
一千人の貴族のために一〇万人が犠牲にされることは道徳的に正しいだろうか?
いや、正しくない。それは〈最大多数の最大幸福〉に反している。
正義とは、幸福の総和を最大化することである。
功利主義の一般的なイメージは、自分の幸せを得るためであれば、他者を犠牲にしてもよい。「最大多数の最大幸福」が至上命題であり、多数者の幸せを促進するためであれば社会的弱者を切り捨ててもよいというような誤ったものである場合が多い。
宅配ピザ店が日本に初めてできたのは1985年9月30日のこと。米国ドミノ・ とライセンス契約を結んだ「恵比寿店」が開店した。アメリカでは宅配ピザは自動車で配達されることが多いが、日本では道路事情を勘案してドミノ・ピザ・ジャパンが宅配専用の三輪バイク「ドミノジャイロ」を導入するなど、独自の進化を遂げてきた。
「時間との勝負」であるためオペレーションは日々進化している
宅配できる「場所」も広がっている。
ピザハットでは、注文客がスマートフォンで専用のアプリをダウンロードすれば店側がGPSで所在地を確認し、自宅以外の場所でも届けてもらえる。
「既存店舗の配達エリアに含まれる地点でしたら、お花見会場でも運動会の校庭でも正確にお届けできます」(日本KFC広報)
ただし、多様化するニーズに対応するために、アルバイト店員の苦労は増えている。
首都圏の宅配ピザ店であれば、1店舗でおよそ2~3km圏内をカバーする。配達1往復が最大でも40分に収まる範囲が業界の基準だという。
背景
キレる高齢者 近隣騒音トラブル 子供がうるさい 保育所
騒音問題 音による心理的ストレス 蓄積的影響
原因 日常的な騒音
バイク騒音 若者のミニバイク 郵便配達 新聞配達
最も深刻 ピザの配達バイク 三輪バイク 騒音量 桁違い
高齢者ターゲット
環境
都市整備された市街地区域外 路地
住宅
長屋 生活道路 歩行者専用道路 路面家屋 アパート 文化住宅 築古年の木造住宅
生活時間
日中を中心とした
健康
ストレス蓄積 発散解消できない コミュニティ
命が削られる
高齢者女性子供
地域生活者のストレス臨界
サンデル
「これからの正義の話をしよう」
リバタリアンとコミュニタリ アン
「正義と権利 は善という概念と密接に関係している。」
マルゲリータ ピッツア
例えばピザを注文すると、ピザ店はお客のために配達バイクは爆音を上げて、最短最速で走行しようとする。騒音だけでなく、速度や通行規制の場所での違法走行など、その交通マナーを遵守しない光景はごく当たり前のように日常的に見受けられる。配達員はお客との関係において、そのサービスやおもてなしの精神で「自分は仕事をしているんだ」という大義名分がある。一方、配達ルートにおいては、その走行に遭遇する周辺住民や通行人などは、その爆音や走行に対して、特にお年寄りや女性子供のストレスは想像以上に大きい。一人の「ピザを食べたい。」という「権利」のために、数十人、数百人の人間に騒音や接触事故などのリスクが生じる。
「安全走行を厳しく指導しており、抜き打ちで社員が配達バイクを追跡してチェックすることもあります。また、配達バイクにはスピードも記録できるカメラを搭載していて、配達後におよその走行速度が確認できます。カメラは万が一の事故の際の記録にもなります」(日本KFC広報)
と説明するが、その実態は時間ノルマや配達員のモラルの問題による不法な走行が常態化し、歩行者や周辺住民に対して、多大な迷惑と精神的ストレスを与えている。
これを「人権」と「公共の福祉」における、比較衡量論に基づいてどのような「定理」を求めて行くのか、非常に難しい。多数の論理からすれば、このようなたった一枚のピザのために、「多くの住民」にストレスを与える「迷惑」な営業行為は禁止し、「客」は多少の利便性を制限されても、ピザが食べたければ、自ら店に出向き、テイクアウトすればいいことであるわけだが、それでは、「客」、「ピザ店」、「配達員」は納得しない。逆に、「一人の住民」が騒音や交通マナーや違反走行について、警察に相談しても相手にされない。「人権」や「表現の自由」に関わる問題については、事件化を拒み決して主体に関わりたくないのである。
現在は公共の福祉は人権の制約原理とされているが、現代日本においては、まずこの「基本的人権」の定義が怪しいのである。まるで、何をしても自由というような権利意識が強い。本来、人権とは「生命の尊重」、「人間の尊厳と平等」にその本質があり、過度な幸福追求が、人権という言葉の持つイメージとして、ある種の胡散臭さや呼び起こしているのも事実である。また、いかなるものが人権を意味するかについて多様な考えがあり、その解決を難しくしている。
現代社会は人権と公共の福祉が対立する、社会そのもののあり方から見直す時代にきているのではないか。本来、人権と公共の福祉は同じベクトルに存在すべきである。そして、それを公理するためには「人権=人として」という解釈の変更が必要になってくる。Human Rightsではなく、
Human dutyとしての認識が、今後世界的な大きな潮流となり、「新しい公共」の概念を一歩推し進めた、「基本的公共権」という考え方に注目が集まることになる。
「周辺住民」の個々の「権利」を付き合わせると、非常に難しい問題である。
0コメント