国家なき紐帯〝The region〟ー kadamoR.E. からEAに向けた連続的表象

JAPAN’S BIGGEST CHALLENGEー私たちはすでに解決の入り口に立っている。




The regionー国家なき紐帯


日本の危機的状況の原因の根本は「家」にある。「国家」もその射程に含まれる。

地球規模での〝家と地区の再構築〟の観点から、

リ・コンシャスの「芸術」のひとつである「小さな家」づくりを「全ての始まり」とする。






〝Think globally, stand regionally.〟地球規模で思考し、地域に立脚せよ。


自分の存在と世界の出来事が結びついていることを、今ほど鮮烈に実感できる時代はない。確かに、今はまだ、大げさなように聞こえるが、やがて、HECPの静かな革命は地球規模となる。今のところその本質や大きさは分からないが、今後数十年の間に、人々の心の中に地球規模の意識が出現すると予想される。

HECP人権・環境・共同・公共などの人と地球と社会の自立と共存をテーマにとした、持続可能なミニチュア地球都市の構築は、「政治」の領域ではなく、「芸術」の領域なのである。そして、その表象であるHECPの「家」と「地区」は、民族や伝統的な地理的な国境を超えて、共通の感性と理想を持っている人々の間でネットワークを作成するパブリックネスの「ゲマインシャフト=基礎自治体」として機能する。HECPは資本主義や社会主義などの社会体制は選ばず、世界中のあらゆる国と地域において、独立した〝層〟における独立した〝形象〟。それが〝HECP〟-人権環境共同公共体である。パラダイムの変化は、政治的、あるいは経済的な意思決定の仕組み(議会や市場)によって導かれるものではない、

〝新たなパラダイムが現れ、その優位性を示し、次第に現行のパラダイムに取って代わっていくものなのだ。〟

人類再興のパラダイムシフトを呼び起こすためには、現世代の「政治家」と呼ばれる層のその射程の「狭さ」への反動として、政治思想、哲学、神学、自然科学、歴史思想、へとその思想射程を拡大し、様々な領域を超え、圧倒的な正義の領域を包摂し律する芸術思想運動を展開していく必要性がある。

「芸術」とは労働である。世界の構築に参加する諸々の主体からなる多様体のなかで共有し、特異的形象を発明する。芸術は、スタティックな、モニュメンタルな造形を想像することではなく、スタンドと化した構想的プロセスのことである。スタンドはこの文脈において、言語表現やシーニュではなく、潜勢力であり「芸術」なのである。

芸術家とは圧倒的イノベーションの実践者でなければならない。いち早く未来に目を向けて、その予想図を持続可能な社会へと変換する人々を指すのである。




家の狭い部屋に家電や家具が押し込まれ、「余白」が全くなくなった。〝デザイン=構成力〟の不足がもたらした生活思想=Home Styleの衰退。


HECPの活動は、初発的なものとして日本の各地において〝家〟と〝地区〟の表象を展開していき、究極的には世界中の多くの〝無名な人々〟が〝自己学習〟により、自足的に家を構えることを理想とするのである。民藝運動やアノニマスデザインを提唱した柳宗理の「良い社会をつくらないと、良いモノづくりができない」と言う共通認識は極めて重要な問題提起である。モノか社会かという神学論争について、今まで日本社会は議論の焦点をずらし問題を未来に先送りしてきた。しかし、答えは極めてシンプルである。まず、社会が変わらなければ企業も良いモノづくりはできないし、行政や代議員は良い政治はできない。民主主義や市場主義において政治や企業には、良い社会など作ることはできないのである。つまり、〝ニワトリと卵〟の議論は、切り取って言えば〝ニワトリ以外の鳥が卵を産み落とし、孵化した卵は変異によってニワトリという鳥になった〟のである。良い社会を作るのは政治家や企業家の役割ではなく「芸術家」の仕事である。もちろん、「芸術家」とは決して絵の上手な人間の類いを指すのではない。「芸術家」とは圧倒的イノベーションの実践者であり、いち早く未来に目を向けて、その予想図を持続可能な社会へと変換する人々を指すのである。




家と地区の原風景の再構築。無名でたったひとつの〝家〟と〝地区〟が、その時代の象徴としての「存在感」を持つことが出来るのか。


一方で、ここまで経済が低迷して、復活の兆しが見えてこないとなると、後は人々のHOME STYLEホームスタイル(暮らしの在り方)を変える以外に経済を成長させる方策はない。 HECPは〝芸術〟を〝国家〟や〝都市計画〟のような「大芸術」と〝家〟や〝地区〟という「小芸術」に二分しつつも、決して対立概念ではなく、独立した〝層〟として二者を分離できない「芸術全体」という枠組において把握していることを示している。両者を「芸術全体」へと再融合すべく、日常生活の「小芸術」に足掛かりを求めるのである。「小芸術」とは具体的には〝家〟や〝地区〟という「家造り」「家具木工」「小物雑貨」などの工芸であるとされ、日常生活において一般の民衆によって使用されるものの表象を意味する。生活の簡素さーそれは「余白の再構築」であるとも言えるのだ。われわれが切望する新しくよりよい芸術の誕生のためにもっとも必要な事柄である。豪邸であれ、バラックであれ、あらゆる所に簡素さが必要である。日本には、昔から「もったいない」の精神心があり、徹底したリサイクルが行われ、緑も豊かな江戸時代のまちづくりに代表される良き伝統があり、また優れた智慧と技術があるのだ。また、古来よりの日本の伝統文化に「侘び寂び」がある。侘(わび)は、貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする美意識を言う。寂(さび)は、時間の経過によって劣化した様子を意味している。残念ながら現代社会は、西洋伝統的な美意識による既成のプロポーションに対するコンプレックスや「新品崇拝」による、「古いもの」、「不完全のもの」には非寛容である。しかし、日本には古来より伝統的に「侘び寂び」という素晴らしい美意識が存在し、HECPにおいて〝家〟と〝地区〟が、その時代の象徴としての「存在感」を持つためには、「生活の簡素さ」の再構築こそが最も重要な命題であるといえるのである。




貧しい人々に、無担保で小額の資金を。バングラディシュのグラミン銀行


マイクロクレジットは、貧しい人々に対し無担保で小額の融資を行う貧困層向け金融サービスのことです。2006年、マイクロクレジットの普及に努めてきたグラミン銀行と、創始者であるムハマド・ユヌス総裁が、ノーベル平和賞に選ばれた。当初は、貧しい人々はお金を借りて商売しても大して稼げないので結局借金が膨らむだけだ、と、貧困層への融資に懐疑的な声が大半でしたが、「貧しい人々も企業家としての能力を持っており、資金さえあれば商売を始めて利益を得ることができる」との信念の下、様々な革新的なスキームを取り入れ、返済率の高い貧しい人々のための銀行を作り上げることに成功したのである。このグラミン銀行の成功により、世界中至る所で同様のマイクロクレジット機関が設立され、貧困層への融資が積極的に行われるようになった。近年では、融資(クレジット)のみならず、貯蓄や保険など、広範な金融(ファイナンス)サービスも行われるようになってきたため、マイクロファイナンスと呼ばれるのが一般的である。




〝ロウアー〟や〝ミドルロウアー〟をターゲットとした、「生活の簡素さ」というリ・コンシャスのHOME STYLE(ホームスタイル)が復興すれば内需は著しく拡大する。産業としてはこれまで手つかずできたターゲットでもあり、伸びしろも大きい。


「生活の簡素さ」というリ・コンシャスのHOME STYLE(ホームスタイル)は、日本全国の過疎や貧困、災害、紛争地区に存在する700万以上といわれる空き家や廃墟や長屋、文化住宅などのミニマルな「家」を舞台として展開される。「侘び寂び」の家は、人の不完全さを許容し、欠落を満たしてくれる、精神的な面で都市機能を補完する建築物だ。都市の成熟とともに、人の心が無意識かつ必然的に求めることになった、『魂の安らぎ』の空間なのである。「限界集落」などの名称は、情報の尻先端を追う学者やマスコミによる造語であり、日本古来の伝統である「侘び寂び」の美意識からすると、「限界集落」などはまさに宝の山であるといえる。「侘び寂び」とは、不足の美、不完全の美である。侘(わび)は、貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする美意識を言い、寂(さび)は、時間の経過によって劣化した様子を意味している。過去にイタリアやドイツでも、こういうことをやって成功を収めたのである。

「生活の簡素さ」ーそれは趣味の簡素さ、すなわち甘美で高尚なものへの愛を生むものであり、私たちが切望する新しくよりよい芸術の誕生のためにもっとも必要な事柄である。豪邸であれ、バラックであれ、あらゆる所に簡素が必要である。

〝ロウアー〟〝ミドルロウアー〟のHOME STYLEホームスタイル(住宅スタイル)において、リ・コンシャス=「生活の簡素さ」という「小芸術」アーツアンドクラフツの在り方を問い直すことができれば、産業としてはこれまで手つかずできた分野であり、伸びしろも大きい。

しかし現実には、多くの〝ロウアー〟〝ミドルロウアー〟が望むのは欲望を抑えた簡素な生活ではなく、普通の金持ちがするような裕福な暮らしである。ウイリアム・モリスのアーツアンドクラフツや民藝運動の思想の最大の欠点は、この心性を全く把握できなかったことにある。

20世紀後半から隆盛し始めた、新自由主義の申し子〝アッパーマス〟と呼ばれる〝富裕層〟は住宅建築の施主となり、都市郊外に居を構え、邸宅内には種々の装飾芸術品が飾られた。HECPは「生活の簡素さ」という〝芸術〟は、〝富裕層〟の求める「贅沢luxury」「俗悪さvulgarity」を「簡素さsimplicity」「正直さhonesty」によって改良しようとする試みであり、世界中の〝ロウアー〟〝ミドルロウアー〟が「小芸術」の在り方を問い直し、「芸術」の理解が高まることで、「大芸術」も「民衆の芸術の威厳」を回復する〝アーツアンドクラフツ 〟の一大運動なのである。

日本の住宅事情は狭い部屋に家電や家具が押し込まれて、まるで納戸のようであり、自宅に客を呼ぶことができず、家に良いものをそろえようという気持ちが薄くなった結果、日本のインテリア産業、家電や家具業界はいいモノを作ろうというモチベーションから距離を置き、「値ごろ感」や「売れ筋」とう指標の中で市場活動が展開されてきた。

日本は輸出立国でありながら、良質なものを作って海外に出さなければいけないのに、このようなHOME STYLEホームスタイルでは、優秀なデザイナーが育つはずもないのである。何故ならデザインはどうしても日常の暮らしが土壌になり、教える側も何が良いものか分からず、教科書通りの指導の枠を超えることができず、美大やデザイン学校においては、むしろその才能や可能性に蓋をするような教育が行なわれているのが現状である。オリンピックのエンブレム問題で話題になったデザイナーが現在でも大学において、美術教育の第一線を担っているという現実は、未来の日本のデザイン=構成力についても極めて暗い影を落としているのである。




理性的で実証主義的な思想への対抗策としての

ロマン主義思想を受け継いだ〝サウダーデ〟と〝サウドジズモ〟


サウダーデという情緒は、本来、個人の願望(願い)と記憶(思い出)を基本的な構成要素とする意識現象であり、この情緒を有する者は過去の記憶のなかに残る人や物、時間や空間を現在に取り戻したいとする願いを有し、その願いのなかで苦悩してきた。サウダーデは。人が現在,愛情,愛着を抱いている,もしくは抱いた人,物,場合によっては状態,行為に対 して用いられる。さらに,そこには対象となる人や物が不在または消失という条件が原則とし て加わる。また,現在そこにない,あるいは過去に失ってしまった対象を思い浮かべるととも に,将来再び見たい,会いたいという欲求,願望が対象に投影される。そして,それらを思い 出 す 時 , さ ま ざ ま な 感 情 が 表 出 す る 。〈 寂 し い 〉〈 悲 し い 〉〈 切 な い 〉〈 苦 し い 〉 ま た 〈 懐 か し い〉〈嬉しい〉〈楽しい〉〈うっとりとして心地よい〉といった感情である。これらの表す一つ, あるいは複数の形容詞がサウダーデという名詞に包含されるのである。要するにサウダーデと は,主体は現在の自分であり,自分が愛情,愛着を抱いた対象が不在または消失した場合,過 去の記憶を思い浮かべるときに生じるさまざまな感情の総体であり,そこに主体の欲求,願望 が投影されたものである。これがサウダーデの基本的概念である。

このサウダーデへの概念付与は、「国民国家」という歴史的かつ社会的な組織原理の構築のための操作と考えることが可能であるし、あるいは政治と芸術とのあいだに親和性を見るとともにそれらを不可分なものとして理論家し実践してきたロマン主義思想の要請であったとも判断することもできる。

サウダーデの概念付与を介してパスコアイスは、ポルトガルの「国家」、「国民」、「社会」を抗争史、この意図的な概念付与をされた情緒を基軸とすることでポルトガル人がヨーロッパおよび近代世界においてポルトガルが「近代世界」において「ヨーロッパ文明へ再び何かしらのものを付与」し、その存在を確かなものとするための拠り所とし、サウドジズモがつねに依拠することの可能なカノンとしたのである。




「芸術としての小さな家。」ー「小芸術」こそが「芸術」の要であり、

「小芸術」を顕在化させ、〝無名な人々〟の存在を再発見することにある。


HECPには、「芸術」をスタティックな、シンボル的な、モニュメンタルな造形物として捉えるのをやめ、人間の動的なアクションのなかで考える。 HECPにおける「芸術」の運動領域の「非権威」ー受動的不服従とは自己の思想に内在的な運動の抽象的な否定でなく、そうした自己運動自体を具体的普遍たる全社会体系の変動の契機(モメント)として積極的に捉える努力を試みることである。HECPの侘び寂びの美意識における〝普遍〟と〝摂理〟の概念は、伝統的な形態に回帰して、歴史の流れを無視して形式だけを借用するという、単なるポストヒストリーなアレゴリー的衝動ではなく、日本の神道に通じる「芸術」を生命運動として捉えたフラクタルでスペクトラムな〝断片〟だといえる。「芸術」の世界において、自分でオリジナルを作ることの出来る作家などほんの一握りに過ぎない。生活の中のありきたりの〝断片〟に込められた意味を寄せ集め、新たな〝断片〟を映し出すことで観客に真実を知らせることが本来の「芸術」の役割である。

政治や思想、「芸術」のサブカルチャーやニヒリズムの表象なき評論や情緒的思考との差別化を行うことが、世界における文化や伝統、宗教を乗り越えた、真の友愛や連帯を包摂した家と地区のリアリティーを生み出し、世界中で群発的に圧倒的なパラダイムシフトを呼び起こすことができる。現代の美術界は「小芸術」を「芸術」の範疇に入れることをせず、日常使用品=コモディティが主題化されることは少ない。これに対し、HECPは「小芸術」こそが「芸術」の要であり、「小芸術」を顕在化させ、〝無名な人々〟の存在を再発見することにある。 世界中の〝無名な人々〟の平和な日常生活が回復された地平にある、「芸術」、これが「生活の大芸術」=ビッグピクチャーである。ウィリアム・モリスが芸術を国家や都市計画のような「大芸術」と家という空間の中で展開される「小芸術」に二分しつつも、二者を分離できない「芸術全体」という枠組において把握していることが示される。分離した両者を「芸術全体」へと再融合すべく、日常生活の「小芸術」に足掛かりを求めるのである。「小芸術」とは具体的には「家造り」「家具木工」「小物雑貨」などの工芸であり、日常生活において一般の民衆によって使用されるものの製作を意味する。民衆が「小芸術」の在り方を問い直し、「芸術」の理解が高まることで、「大芸術」も「民衆の芸術の威厳」を回復する。




自宅公共化による家と地区によるアート活動。

日本のアートシーンでは物事を難しくすることで、

無理やりに美大を頂点とした美術教育システムを成立させている


HECPの自宅公共化によるアート活動は、現代アートも、アウトサイダーアートも、アールブリュットもなく、すべて〝アッサンブラージュ〟であるという考え方だ。本来のアートは熟練の匠の技を持った画家も、路上の子供の落書きも、障がい者の作ったオブジェも、アートの特異的形象の可能性においては全く同じであり、だれでもが勝つ可能性があるっていうのがアートの面白さなのである。〝アッサンブラージュ〟とは、寄せ集めること、未完全であること、これが原点である。日本においては、芸術創造は楽しむためのものではなく、専門家、プロ志向で評価と競争が伴う厳しいものになっていて、ある種の権威により、プロと素人の間に大きな格差が設けられている。日本で、美術や音楽が好きでその道に行こうとしたら、プロ指向の道しかない。そこにはつねに評価や成績、選抜、競争があり、またレベルをあげようと思えば思うほど、音楽、美術に限らずバレエでも書道でも茶道でもあらゆる習い事には相当のお金がかかり、並大抵の努力ではついていけずに、途中で脱落し、創造活動をやめてしまい、お金で買って受動的に楽しむだけになってしまう。

こうしたことは芸術だけではなく、仕事でもボランティア活動でも、専門家指向、根強い権威志向が存在する。もともと「芸術」はプロとしてお金をかせぐためにあるのではなく、人々に生きる喜びを与え、惰性になりがちな日常から解放させるためにあるべきである。欧州のモダンアートは、日常生活の中から生まれてきている。イタリア人の家は、人を家に招いたり、招かれたりするサロンになっている。人と人との交流場所だ。そこから素敵なモノを家に置きたい、人生の素敵な舞台を作りたい、という気持ちが生まれて、美大や美術館よりも、それがアートの土壌となっている。

HECPのThe regionでは、高齢者・障がい者・子育てママの就労の場であると同時に地域の住民やとりわけ子供たちが日常的な生活空間の中で、コモディティーとしてのアートに触れ合う場として位置づけられている。欧米ではクリスマスや誕生カードは手作りが基本で、どんな絵の下手な人でも絵をコピーして色を塗ったり、あるいは落ち葉を集めてそれを貼ったりと下手は下手なりに工夫するようになる。

また、教育においても、イタリアのレッジョ・エミリアアプローチのように、アートやモノづくりを通じて高齢者や障がい者たちの家づくりに子供たちが集まって参加するというスキームを参考に、従来の教育方法とは根本的に異なる独創的なアプローチを展開しているのである。





The regionー〝新・新しい公共の形成〟




「法」と「税」と「暴力」を通さない「市民社会」とは。


社会とは、ただ人々が集まるスペースではない。思想家ルソーからアーレントまで、「社会」は「万人が狼となる」というふうに考えてきた。現代の多くの人々は、社会の代案として公正な〝パブリック〟という場所に解放を求めている。『世界中で、形式的な公共性か ら、実質的な公共性への転換が必要だと論議されてる。それが「公共性の構造転換」 (ドイツの社会学者ハバーマス)である。ハーバーマスは、『公共性の構造転換』で、『市民社会』の制度的核心をなすのは、自由な意思に基づく非国家的・非経済的な結合関係である。いくつかの例をあげれば、教会、文化的なサークル、学術団体をはじめとして、独立したメディア、スポーツ団体、レクリエーション団体、弁論クラブ、市民フォーラム、市民運動があり、さらに同業組合、政党、労働組合、オールタナティブな施設にまで及ぶと言及している。



非国家〝The region〟は国家のような秩序はないけれどその分エネルギーがある。


ヘーゲルの〝市民社会〟は市場を前提にしており、かつ国家に収斂するという難点を有している。ハーバーマスは、市場とは異なる公共圏としての〝市民社会〟概念を提起し、国家に対抗する存在としてとらえた。ジーン・コーエンやアンドリュー・アレイトは「市民社会と政治理論」の中で、国家、市場、市民社会をそれぞれ別のもとと考える「三項モデル」を提示する。つまり、国家でも市場でもない第三の領域としての〝市民社会〟が明確に定義づけられた。そして、その核にはハーバーマス同様、自立的な〝アソシエーション〟が据えられている。すでに自立性を獲得した市場の経済権力は、国家権力同様、社会的連帯や社会正義にとっての脅威となりうるからである。コーエンは、いわば〝市民社会〟は、国家や経済に対して影響を保持することによって、その機能を補完する役割を担うものといえる。だからこそ、コーエンらは現代市民社会論の特徴ともいえる社会運動を重視するのである。



「公共性」の転換が起こる理由


20 世紀から 21 世紀への大きな時代の転換点にあたり、新しい政治、新しい公共性、新しい社会が求 められている。そのベースは、市民の生活を支え、問題を解決し、市民生活をより豊かに支えていく ための新しい公共性である。「公共性の構造転換」が起こるのは、社会を構成する基礎単位である家族と地域が変わっているからである。

日本社会においては地域社会は激変し、かつてのような安定した地縁を基にした地域共同体は、多くの地 域で崩壊している。町内会自治会は全国に存在するが、その実態は形骸化している。これは、ひとつには、戦後の高度経済成長の過程で、日本の産業構造が 激変し、地域社会に定着しながら営む自営業や農業などの就業人口が激減し、人口の社会移動が激しい流動社会となり、地域社会との実質的なつながりに乏しい社会になっている。

このように、人間の社会生活上の基礎である、家族や地域社会の、社会的機能がどんどん減少しつつあるのである。それを補い、サポートし、支援する仕組みがなければ、家族や地域社会はますますやせ細っていき、家族や地域社会が衰弱したら、社会の存立そのものが危うくなる。このような社会の変動期にあっては、家族や地域社会の実態の変化にあわせたパラダイムシフトが必要になり、それこそ人びとの望む新しい〝公共性〟ということになるのである。



〝シェアリング・コミュニティ〟という共有可能性

行政区分や伝統的地理境界を超えたネットワーク社会の地理学と〝パブリックネス〟。


〈パブリックネス〉とは、情報・思考・行動をシェアする行為、またはそれらをシェアしている状態。人を集めること、または人・アイデア・大義・ニーズの周りに集まること。つまり〈パブリック〉を形成すること。そして、周囲とコラボレーションするために、プロセスをオープンにすること。オープンであることの倫理である。

個人個人がオープンにすることによって各自のもつ価値にアクセスができる。そして、そこからパブリック空間が生まれる。普段自分一人だけいるとき、家は「プライベート」な空間だが、お客がくれば、その空間は「パブリック」になる。つまり、「パブリック」と「プライベート」は対立する要素ではなく、何を「プライベート」にして何をオープンにし、「パブリック」にするかということを個人が自分自身で選んでいく自己決定性だという。自らの部屋をオープンにして、シェアリング・コミュニティとして、世界中に宿泊先を提供したり、手料理を地域の人とシェアするといったさまざまなシェアリングサービスは、「個人個人がいろんなリソースをパブリック化し、シェアすることで、地域、経済、市場の共有可能性が生まれるのである。



NPOの限界と「新しい公共」の限界


「国家」という組織は、強制力はあるが、柔軟性に欠ける。「法」や「税」に縛られていることから、なかなか柔軟な対応ができない。他方で現代社会においては、スピードを含め柔軟な対応が要求される頻度が増している。そこで機能不全に陥る「国家」に代わって、市民や結社の手により、より多くの人が共有するためには、柔軟性が求められ、本来であれば、その現実的な選択肢の一つに、民間非営利 組織(NPO)が担う公共性形成機能があげられるが、NPOの実態は協働といいながらも行政の仕事がそのまま委託先に依頼されるが、権限は行政側に維持されている下請け機関になっている。

またNPOを隠れみのにした犯罪も後を絶たない。大半のNPOは善意に基づくボランティア活動などで社会に貢献しているが、クリーンなイメージと緩やかな設立要件に目を付け、詐欺などに悪用するケースも目立つ。制度発足から20年。運営や認証時のチェック体制の見直しも求められている。カルト的な宗教団体、反自由主義的・反民主主義的な集団の増殖傾向がみられるが、こうした状況は、市民社会そのものの危機ともとらえうる。

本来、NPO(NGO)の存在意義は、中央集権を排除し、行政の無理無駄を切り捨てる手段であり、民主主義の理念に基づいた市民参加を最適なコストパフォーマンスで実現する手段でなければならない。そういう意味では、日本には、未だ本当のNPO(NGO)はひとつも存在しない、と言っても過言ではない。公共性の担い手として自律するよりも行政への依存だけが目的化しているような感じを否めず、公的資金への依存度が異常に高いのである。

日本社会はいま、様々な分野にわたって「劣化」が進行しており、人権・環境・コミュニティ・公共の民主主義や立憲主義もおびやかされている。

厳しい言い方になるが、2万7000を超えるNPOのうちこのような本質的な問題にとりくんでいるのはほとんど存在せず、むしろ、NPO団体の増加と比例するように日本社会のますます劣化が進行している状況は、もはやNPOや新しい公共の限界と言える。



The regionー日本の市民と日本の行政の創造的対決が始まる。

それは「法」と「税」を通す勢力と

「法」と「税」と「暴力」を通さない勢力の〝創造的な対決〟である


世界中で群発的に発生するテロや自然災害などの人類社会の危機に対して、〝新しい公共〟という行政の補完スキームなどではなく、本当の〝公共性〟が求められている。

それは名前だけの〝公共性〟ではなく、湧き上がる ように、熱く求められ、広く支持される公共性だ。 「公共性」や「公共事業」という言葉が、胡散臭く、懐疑的に語られるようになったしまった、その大きな理由は、自分たちが本当に必要とする公共性を、自分たちも担い、自分たちも〝公共性〟を作っていく一員なの だ、という基本的なところが見えなくなってしまい、これまで、市民も〝公共性〟を作る重要な一員なのだという経験がなかったこと、また意識は あっても実現できる回路に乏しかったこと、つまり、自分たちが〝公共性〟の形成に関与してこなかったからである。

これからの「市民」は、現在の行政や代議員と呼ばれる層の政策のその射程「狭さ」への反動として、政治思想、哲学、神学、自然科学、歴史思想、へとその思想射程を拡大し、様々な領域を超え、多くの知の領域を包摂し律する思想運動を展開していく必要性がある。現状支持派に対抗するのは、持続可能性を高めようとする個性豊かな人々で、唯一の共通点は、遠い未来を見据えているということだ。

The regionの中核は、有権者と政治家が同意するずっと前に、将来を見据えた行動を起こさなければならないと考えている無名の人々だ。また、この「グループ」には将来的には国家や団体の、先見の明あるリーダーも参加する。人類の長期的な未来のために戦うことを目的として組織されたNGOや世界組織も、この集団の強力メンバーに名乗りををあげるはずだ。






The regionー

国家なき紐帯はテロリズムとの闘いでもある。





〝テロリズム〟との戦いとは、 リージョン「地域」をHECP(人権環境共同公共体)の〝碁石〟(いし)で囲む〝囲碁戦〟だ。

「戦争」の芸術に対する「芸術」の戦争である。


テロリズムとはある意味で「善悪の彼岸」に咲く「反芸術の芸術」であると言える。正義、悪、道徳、反道徳、これらを全て包摂することなしに、テロリズムが開花することはありえない。

テロリズムの「正義」、それは飢餓、孤独、貧困、格差、差別、紛争、などによる人間の苦しみからではないか。素質や学習といった後ろ盾で支えられていない、何も無いところからテロリズムの「正義」が生まれるためには表層的な知識や訓練などではなく、心の奥から、特別な想念を汲み上げる必要なのである。テロリズムの「正義」とは、ひとの生から絶対なくすことのできない負の宿命と、たった一人で拮抗するためにこそ存在する。それこそ「正義」の最も根源的な姿なのではあるまいか。逆に言えば、そのような苦しみと直面しない者にとって、「正義」はなんら必要ではない。紙幣と娯楽で充分なのである。「正義」を政治や経済、生活や文化といった社会活動と同列に語ることは出来ない。しかし、「テロの温床は貧困だ」と言ってしまうのは最も退屈な結論。問題はもっと複雑である。社会的な不正に対する感覚、正義感や使命感というのは、貧富の差に関係なくある。また、テロリズムというのは、絶対的な強者に対して追いつめられた絶対的な弱者が異議申し立てをするための、仕方なしの手段ではないのか。それ以上にイスラムをつきつめていったら、ああなったのではなくて、まず異議申し立ての思いがあって、ツールとしてイスラムしかなかったのではないのか。危険回避のために仕方なくクラクションを鳴らしたのか、普段のストレスの蓄積により、実はクラクションを鳴らすきっかけを探していたのか、自分自身でも測れない深層における心理は複雑に混在しているのである。



自国で育った者による「ホームグロウン・テロ」とされて、いま、この「自国育ちテロ」が世界的に大きな課題となっている。それはどのようなテロなのか。どう防げばいいのか。


HECPのThe regionは人類がテロリストという補食者から身を守り、生き延びるためにダイバーシティな「混群」という「無名の群れ」の公共体を形成することで、捕食者であるテロリストの発見効率をあげると同時に、純粋な若者がセキュリティーホームグロウン・テロへ巻き込まれることを防いでいく。

世界中で群発的に発生するテロや自然災害などの人類社会の危機に対して、〝新しい公共〟という行政の補完スキームなどではなく、地球規模での人類社会における真の〝公共性〟が求められている。それは名前だけの〝公共性〟ではなく、湧き上がる ように、熱く求められ、広く支持される公共性だ。『世界中で、形式的な公共性か ら、実質的な公共性への転換が必要だと論議されている。それが「公共性の構造転換」 ドイツの社会学者ハバーマスの言葉だ。『市民社会』の制度的核心をなすのは、自由な意思に基づく非国家的・非経済的な結合による〝国家なき紐帯〟である。



HECPの「芸術」運動はテロリズムという「反芸術」に対する囲碁戦だ。


多くの政治家の発想は、昔の国家間戦争のドグマから抜け出すことができない。今、国家による「チェス」の話をすること自体、もともと出発点でずれている。

HECPの「芸術」運動はテロリズムという「反芸術」に対する囲碁戦だ。 そして〝人類社会の理想〟の実現における主人公は、〝リソーシズ〟と呼ばれる無名の高齢者である。〝リソーシズ〟は平和を希求する〝世界理念〟実現のための小さな「碁石」であり、それは決して、「駄目」などではなく、状況を劇的に変化させる「捨て石」である。

HECPの〝実践的芸術主義〟とは消滅することによってますます存在感を強くする運動の表現だ。そして、「テロ」との戦いとは〝共同体〟をめぐる〝テロリズム〟という「反芸術」に対する、「芸術」の〝囲碁戦〟である。時代は「テロ」との戦いを言い出したときから、戦争には輪郭がなくなり、世界中にしだいに戦争が拡散しているという気配が出来上がった。

「囲碁」の場合、駒(碁石)は白と黒によって敵と味方を区別されるにすぎない。駒たちはすべて無名で、特性がなく全て平等である。これに対して「チェス」の駒は、序列化された階層構造の中で明確に役割を与えられている。その機能を変化させることはなく、最終目標のために任務を遂行する。「チェス」の駒は、その役割に応じてコードに沿った動きをするが、これに対して「囲碁」の駒には戦線もコードもなく、戦略如何によって、いかなる地点にも出現しうる。「囲碁」の駒は、突然現れる。突発的な権力行使によって、状況を劇的に変化させることが出来る。「チェス」が国家運営のゲームであるとすれば、「囲碁」は戦争機械を運営するテロリズムに対するゲームであると言えるだろう。「チェス」は単一の中心=王様をもつが、「囲碁」は単一の中心をもたない。多くの政治家の発想は、昔の国家間戦争のドグマから抜け出すことができない。今、国家による「チェス」の話をすること自体、もともと出発点でずれている。






The regionーEA with HECP
東アジア/人権環境共同公共体





HECPの実践的芸術主義

〝国家ー共同体〟と〝非国家ー公共体〟


この地域の将来がどうなるかは結局のところよく分からない。多くの国が平和と反映を享受するようになるかも知れないが、そうはならない、あるい一時的にせよ大きな混乱が起こるかもしれない、というシナリオも考え得るのである。しかし将来がよく分からないということは、この地域の国々がどのように考え行動するかによって状況を制御できるかもしれないということを示唆している。しかし、政治体制の違いや深刻な領土紛争を抱えた東アジアにおいて多国間の協力・対話の枠組みを構築しようと考えても、NATOのように地域の国をほぼ全部含んだ強力なものができるとは期待しにくい。

台湾問題やいくつかの領土紛争について根本的な和解や解決は非常に困難であり、中国を含む東アジア諸国の国力の変化に際して安定した国際秩序を維持する必要がある。

今後100年間という長い期間で考えれば米国が一国で世界の安全保障を支え続けることは不可能であり、世界の安全保障を考える余力のある国が政治的・軍事的な協力関係を構築しておくことは、将来の不安を軽減する為の重要な布石であるが、これらの可能性についても未知数である。

従って東アジアや世界全体の安全保障は、国家ー共同体的な発想ではなく、非国家ー公共体の構築を視野に入れた外交的・政治的提携関係に変容していくべきである。その際の主体は、「政府」ではなく、日本は地域の安全と繁栄についての主体的な現状認識と将来ビジョン、政策提言能力が必須である。

サウダーデの概念付与を介して、日本の「国家」、「国民」、「社会」を抗争史、この意図的な概念付与をされた情緒を基軸とすることで日本人が東アジアおよび近代世界において「東アジア文明へ再び何かしらのものを付与」し、その存在を確かなものとするための拠り所とし、サウドジズモがつねに依拠することの可能なカノンとする。

国家主義の思想とその射程の「狭さ」への反動として、文学、哲学、神学、自然科学、歴史思想、政治思想へとその思想射程を拡大し、アジア思想のあらたな基盤の再構築を図る必要がある。このサウダーデへの概念付与は、「非国家ー公共体」という歴史的かつ社会的な組織原理の構築のための操作と考えることが可能であるし、あるいは政治と芸術とのあいだに親和性を見るとともにそれらを不可分なものとするロマン主義思想の要請である。

全体主義を克服するためには、その存在を人びとの記憶にとどめておくことが可能なような、そういう公共的な記憶の空間が要請されるのだ。



民族や伝統的な地理的な国境を超えて、

共通の感性と理想を持っている人々の間でネットワークを形成する「共同体」。

それが「HECP-人権環境共同公共体」である。


HECPの理念は、西側先進国だけの都合のよい枠組みの中になんとしても押さえ込もうとするのではない。また、国家に抗する〝共同体〟という意味ではなく、国家や行政区分の概念を超えた、現実態としてそれぞれの地域やそこに住んでいる人々が、「生活の簡素さ」により、住んで生きられる状況をつくっていく。それが基本的で一次的な秩序形成だと言える。

日本は古来、海や山など『八百万(やおよろず)』を神とあがめる多神教の国。日本の伝統文化は、神道を基軸として、海外の文化も取り込み、異なる価値観にも一定の寛容さを持ちながら、自助と共助による公益市場社会を形成してきた。この集団にいれば、そこそこ生きられる。これが日本の『伝統的保守』の原点であり、欧米の言うリベラルや社民に近く、弱肉強食の『アメリカ型の保守』とは異なる考え方である。 イスラムでもない、アメリカングローバリズムでもない、「世界国家なき世界社会」の普遍性と摂理に基づいたThe regionの実現が求められているのである。

HECPという日本のオルタナティブカルチャーに共感するという数億人の「ジャパン支持者」を世界中に作りだし、今後の日本は、軍事力や経済力は衰えても、芸術や文化には創造的であり続ける可能性を導き出す。「日本の復元力」を無名の高齢者たちが担うのである。

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