The regionー主体となる分離された新しい層の高齢者、
智慧のある者ー〝リソーシズ〟。
「支えられる側」から「支える側」へ
「高齢化問題」の解決は高齢者が働くことによってしか、
他に解決法はなく、それ以上でもそれ以下でもない。
現在、日本の高齢者(65歳以上)人口は2700万人に達し、4人で1人の高齢者を支えている。日本は20年後に全体の約3分の1が高齢者になると予測されているほどの、世界一の“高齢者大国”で、今や「課題先進国」なのである。政府は65歳以上を一律に「支えられる人」とする現在の定義を改め、意欲と能力のある高齢者の就労を支援するなど『人生90年時代』を前提にした仕組みへの転換」を打ち出した。この世代の人たちを、年金や福祉など「支えられる側」から「支える側」へと変えていかなければ、超高齢社会の持続は困難になる。
また、高齢社会の中で単身世帯数が 増えていくのも見逃せないトレンドである。日 本の総世帯数は2010年に初めて5,000万世帯 を超えて約5,200万世帯になった。人口が減 る一方で世帯数が増えているのは、1人世帯 や2人世帯の増加が原因だ。5,200万世帯のうち1人世帯は約1,600万世 帯と、実に30.7%を占めている。3世帯に1 世帯が1人世帯ということは、これまで主流だ ったファミリー向け家電製品の商品企画や開 発が通用しなくなることでもある。さらに、先 ほどの高齢化率を加えると、なんと一人暮らしの高齢者は600万人で総世帯数の実に11.5%を占める。ちなみに、1人世帯を含む2人以下世帯は約3,000万世帯となり構成比で60%。最大の「ボリュームゾーン」を形成している。
世界に目を向けても、先進国の抱える共通のビッグイシューは「高齢化問題」だ。日本は課題先進国のトップランナーを走り、世界中がその解決を注目しているのだ。この問題は一見複雑でその解決は非常に困難極まるように見えるが、政治家、学者や専門家のもっともらしい〝レトリック〟は、自らの権益を守るために、マッチポンプのように問題を複雑化していることに他ならないのである。「高齢化問題」の解決は高齢者が働くことによってしか、他に解決法はなく、それ以上でもそれ以下でもない。「財源」や「制度」ありきの議論をいくら繰り返しても全く意味をなさないのである。「支えられる側」から「支える側へ」ーこのドラスティックな転換のもたらすイノベーションは〝高齢者〟のやりがいや充実した生活だけではなく、それらを取り巻くサービスやコミュニティのスタイルが市場主義偏重の人と人の関係性から、ユニバーサルな新しい価値観や関係性への変革をもたらす。
また、日本社会が抱える様々な課題の中核に「高齢化問題」があり、年金医療・社会保障の問題だけでなく、日本が抱えるビッグイシューが全てに関連する。高齢化問題に道筋が立たなければ、全ての議論は絵に描いた餅だ。
総花的な政策設定ではなく、この問題を徹底的にフォーカスすることにより、医療・年金な どの社会保障問題だけに留まらず、財政・雇用等の諸問題を包括的に一気に解決することができる。
逆転reversalー「未来が幸せなら、過去の選択はすべて正しかったことになる。」
政策決定権から疎外された高齢者 ー高齢者に必要なのは、
「パン」でも「バター」でもなく、「詩」であり、「芸術」である。
「下流老人」などの言葉遊びにより、高齢者や高齢化社会のイメージが一人歩きし始めた。一体、「下流」 の何が悪い。高齢者が恐いのは「貧困」でも、「孤独」でも、「疎外」でもない。本当に恐いのは「尊敬」されなくなることだ。
現在の日本の〝高齢者〟は、「シルバー民主主義」などと揶揄されながら「優雅に暮らしている」と思われ、年金の世代間格差の議論では「老人が若者から搾取をしている構図」だと言われる一方で、最近は“下流老人”という言葉が一人歩きし、現実態の〝高齢者〟や高齢化社会に対する議論の障壁となっている。「高齢者問題」の解決は、社会や時代に合わせた自立支援も重要だが、 国や 地域社会が、〝高齢者〟によるモノやサービスをの、現役世代と衝突しない「アマチュアリズム」のアファーマティブな市場スキームを構築する方が合理的であると言える。地域社会が〝高齢者〟を必要とするスキームを構築することにより、自らが社会に必要とされている喜びで〝高齢者〟の「労働観」は大きく変容する。
家と地区の「共同体」を再構築するのは、無名、非権威の〝リソーシズ〟だ。
現役世代の人間に、これ以上の負荷をかけるわけにいかない。
年をとれば穏やかな性格になり、好々爺然としてくる――というイメージを抱いている人は多いかもしれない。だが実は高齢者の暴言やエキセントリックな言動など「キレやすくて自己中心的」になるのは必然だという。人の感情をつかさどる脳は年を重ねるごとに萎縮することが明らかになっている。萎縮に比例して脳の機能は衰えるため、物忘れのような老化現象が現れる。そして脳の中で早い段階から萎縮が始まるのが、衝動の抑制や理性、意欲などを担う「前頭葉」。これによって感情抑制機能の低下、判断力・意欲の低下などが起こる。それ以外にも喫煙や飲酒などの長年の生活習慣によって脳の機能低下は起こる。
「人は一般に年を取るにつれ、保守的になり、変化を嫌い、安楽に過ごしたいという気持ちが強くなる。それを最も排除しなければならない」ということである。日本を見渡せば、多くの高齢者がすることもなく毎日のように病院に時間つぶしに通っている現実もあり、そのことが医療費の拡大となり、国の予算を圧迫している。「気は病から」と言い、「恐れず挑戦する」姿勢でスポーツ、レクリエーション、リゾートに代わり、共同体の構築という社会貢献に活動していけば、高齢者自身にとっても、健康維持に繋がり、精神的な健全さが生まれることにもなる。
仏教に「初心」という言葉がある。初心を持つのはすばらしいことだ。初心とは、物事を拒絶しない、貪欲に学ぶ、先入観を持たないということ。小さな子供のように人生と向き合うこと。好奇心と疑問、驚きに満ちていることを指す。
人生90年時代を迎え、定年リタイア後の人生は決して余りものなどではなく、「60歳」は新しい人生の扉を開く「起算点」にしなければならない。会社や子育てのトンネルから解放され、自分が本当にやりたかったことは何なのか問いかける時期が、この独人期にさしかかる人々だ。それまでは、あまりの忙しさに考える余裕もなかったに違いない。独人期は、時間を取りもどす季節。独人期は、人生におけるジャンプであり、離陸の時期でもある。これまで、たくわえてきた体力、気力、経験、キャリア、能力、センスなど自分が磨いてきたも60歳を起算点として、普遍的な真実や自然の摂理に目を向け、不合理な権威や社会的制度、慣習に従わない 受動的不服従により、自らの意思で動く決断するのである。既威をシーヴ(ふるい)し、すべての権威の断捨離を遂行することによりあらゆる可能性を排除しないことにもつながる。新しい人生を手に入れることができる。六十歳になったからこそ、子供の時の夢に向き合うことができるのだ。
「独人期」と呼ばれる60歳から70歳は人生の〝プラチナテンイヤー〟だ。
高齢者起業においては、既存のマーケットと競合しないオルタナティブな市場での起業による解決が合理的であると言える。高齢者の定年延長などの政策は現役世代へ新たな負担を強いることになり、むしろ、50歳定年の選択を可能にする受け皿として、高齢者や障がい者の社会参加の理念を共有する倫理消費者によるアファーマティブな市場社会の形成が急がれる。 公益を目的としたブランドにおける商品サービスの開発の最大の目的とは、高齢者の啓蒙とモチベーションによる、「労働観」のドラスティックな個の変革である。既存の市場社会と共存共栄を目的とした、高齢者にとっての「スタートアップ地区」の機能を果たしていくことが重要になってくるである。社会に〝パラダイムシフト〟を呼び起こし、大きな変革を実現することは、現実社会や組織のなかで様々な常識や社会的責任などのしがらみのある現役世代では困難である。独人期における新層高齢者の役割は60歳を起算点として、普遍的な真実や自然の摂理に目を向け、不合理な権威や社会的制度、慣習に従わない 受動的不服従により、自らの意思で決断することである。新層高齢者の60歳から70歳の独人期は人生の集大成であり、人生で最も輝きを放つ〝プラチナテンイヤー〟なのである。
世界を変革する、〝リソーシズ〟と呼ばれる高齢者の登場。
「最後がハッピーなら、過去の選択はすべて正しかったことになる。」
人生という物語においては、最後の場面が最も大きな「見せ場」である。
高齢化問題の解決に向けての構成的プロセスは極めてシンプルである。無名の〝リソーシズ〟が現代人の失われた精神性を回復し、人間の生き方を見つめ直し世界を変革する主役になる。〝イノベーション〟により国民のパラダイムシフトを呼び起こし、状況を劇的に変化させることができるのである。
『過去も未来も存在せず、あるのは現在という瞬間だけだ。』
未来の表象とは、現在の変革の連続性である。過去の分析がどうだとか、未来の計画がどうだとか、実際に私たちが何か実践できるのは、現在というこの瞬間だけである。未来とは、まだ形の定まっていない。形の無いものを変えることはできない。未来は何も決まっていない、何もない「白紙」のことなのである。そのことは、子供も大人も高齢者も全く同じことである。
ニーチェは物事の認識について、「樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら。それは果実だと誰もが答えるだろう。しかし実際には種なのだ」と言っている。
「夢」は人が生きるためにどうしても必要なものである。「夢」はそれが実現して始めて価値を持つものではなく、実現することを信じて夢の実現に向かって行動しているその時に行動している人を活性化してくれることに価値がある。そして、「夢」がいつか実現するという確信の度合いが高いほど人は活性化される。現在、世界中で展開されている〝高齢者〟の小さな「芸術」はほとんどの人々には鉛筆の足跡にしか見えないが、そのデッサンは確実に大輪の薔薇を表象しているのである。
かつて「高齢者」が尊敬されていた時代においては、「高齢者」は無条件に敬われる存在というよりも、「智慧ある者」として、共同体・家族のために大きな貢献をする存在であった。
〝リソーシズ〟と呼ばれる高齢者には社会人期の現役世代にはない、経験・知識・技能から培った「長年のあれ」という解析化できない独特のパワーを備え持っている。あれとは物事を行う上で、抑えておくべき大事な点のこと。この場合、コツ ・ 極意 ・ ポイント ・ 要領 ・ 秘訣 ・ 勘どころなどの物事の大事な部分の概念ことであり、言葉化できない場合における代名詞の芸術表現である。
〝リソーシズ〟は平和を希求する〝世界理念〟実現のための小さな「碁石」であり、それは決して、「駄目」などではなく、状況を劇的に変化させる「捨て石」である。囲碁の駒は、突然現れる。突発的な権力行使によって、状況を劇的に変化させることが出来るのだ。〝リソーシズ〟には、何ものにも囚われないリベラル(自由)がある。〝リソーシズ〟が他から期待されるところは、善意の、誠心誠意の、私利私欲を離れての、かつ「深謀遠慮」としてのわがままであり、そして、何ものも恐れることのないラジカル(決死)がある。これこそが〝リソーシズ〟の本領なのである
HECPにおける「非権威」ー受動的不服従
〝リソーシズ〟は状況を劇的に変化させる「捨て石」である。
HECPにおける「非権威」ー受動的不服従とは自己の思想に内在的な運動の抽象的な否定でなく、そうした自己運動自体を具体的普遍たる全社会体系の変動の契機(モメント)として積極的に捉える努力を試みることである。無意識の世界で我々を規制している政治的なものの考え方の中でも一番基底にあるもの」が「権威信仰」である。「権威信仰」を支えるのは「既成事実への屈服」と「普遍の意識の欠如」を無意識の世界でコントロールされるごく普通の多くの日本人である。リソーシズは、60歳を起算点として、普遍的な真実や自然の摂理に目を向け、不合理な権威や社会的制度、慣習に従わない 受動的不服従により、自らの意思で動く決断する層である。
〝リソーシズ〟は「芸術」をスタティックな、シンボル的な、モニュメンタルな造形物として捉えるのをやめ、人間の動的なアクションのなかで考え、「人には、劇的に考え方や感性が変わる個の逆転の瞬間がある。」
それまでの常識が一気に覆り、新しく目が覚めたような気分になる。このような体験を、パラダイム・シフトと呼ぶ。単なるきっかけがあったり動機を備えていたりするだけでは、人はそう変われないものである。パラダイム・シフトはもっと強力で不可逆的である。
それがパラダイム・シフト、。The regionにおけるリソーシズの使命は、世界中で群発的に圧倒的なパラダイムシフトを呼び起こすことにある。
〝リソーシズ〟の非権威思想
既威のシーヴ(ふるい) 〜 権威の断捨離〜
〝リソーシズ〟の非権威思想は、インドの伝統思想にもとづくもので、サティヤーグラハ(真理把持)がキーワードである。すなわち、私たちは、物事の真理を究めようとしても、常に多面的な真理のうちの一部を理解しているに過ぎないとの前提のもとに、真理を究めるためには、利己的な態度を捨て、自分と他者とを隔てる考えを捨てることが必要であると説いている。
また、ノブレス・オブリージュとは本来「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことを指し、サティア・グラハの思想と表裏一体を成すものである。
弱者に対して施しをする精神、高貴さを身分や地位でなく個人の魂の輝きと捉えるならば、組織や集団の長のみならず、無名のあらゆる人々にとってこの概念は精神的な支柱となり得る。
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