The regionーホームエレクトロニクスカフェプログラム
「HECP」Home Electronics Cafe Program
「自己学習」により日本全国で30万、東アジアで1000万、世界中に2000万の〝ゲマインシャフト〟を実現する。
ファストフード店最大手のマクドナルドの出店計画は10万人につき3店舗だと言われている。日本全国では約3000店舗になる計算だ。それに対して地域のコミュニティーとしての機能も果たすホームエレクトロニクスカフェは1000人につき3店舗、日本全国で30万店舗、東アジア世界中で2000万店舗を目指している。
ホームエレクトロニクス・カフェという、日本のオルタナティブカルチャーに共感するという数億人の「ジャパン支持者」を世界中に作りだし、今後の日本は、軍事力や経済力は衰えても、アートや文化には創造的であり続ける可能性を導き出す。「日本の復元力」を無名のリソーシズたちが担う。
「一座建立」 という インスタレーションアート
「存在しながら、いつか消滅していく」ー〝インスタレーション〟のアート。HECP(ホームエレクトロニクスカフェ)の芸術表現は、「家」と「地区」をギャラリーとして見立て、アップサイクルされた家電や家具などのアッサンブラージュを寄せ集め、不作為に配置されている空間を作るのである。そして、観客を「家」と「地区」という主観的な作品のなかへ呼び込んで行く。〝できすぎず、もてなさず〟という侘び寂びの未完全の美意識にアーツアンドクラフツは、従来の「芸術」は難解なものという固定概念や、「芸術」に対する障壁を取り除くことにより、観客の想像力を触発し、新たな主体へと変化させていくのである。それは、「技術の習得や社会的成功に向けて努力しない」という〝無力〟による「芸術」表現である。〝キャスト〟との化学反応により、「家」と「地区」という作品の表情は毎日変わる。観客がその空間を体験(見たり、聞いたり、感じたり、考えたり)する方法をどのように変化させるかを要点とするアートフェスティバルであるとも言えるのだ。観客と演者の境界をとりのぞき、“家”が自己表現をするのを手助けする、カフェというアートフェスティバルの新しい側面を紹介します。観客が受身で見るだけでなく、役者として― 主役や脇役として参加することを求めるからオープンなのである。
「観客参加型」のアートとは
アートのインタラクティブな共同作業は、偶然性、即興性、意外性、葛藤や失敗といった要素が常につきまといます。
予定調和的なコラボレーションではそのプロジェクトは意図されたもの、偽善的なものにしてしまうことが多いようです。こういうとき一旦、「デ・コラボレーション」することが大切です。意図的に、スタートとゴールの部分をばっさりと切り取り、プロセスを自律的に浮かび上がらせ、プロセスを大切にすること。そしてプロセスの中にある偶然性、即興性、意外性、葛藤や失敗を受け止め、味わい、理解し、試行錯誤しているときに、無意識に隠蔽している大切なものが流れの中で浮上します。ときに人と対決することがあってもそれは非日常の対立であり、その対立は価値あるもので、そのへんは日常の対立とは決定的に異なります。
ホームエレクトロニクスカフェはドアノブにプレートを吊るすだけで、高齢者の新しい物語が始まるオープンで参加フリーの「社会変革プラグラム」。
ホームエレクトロニクスカフェプログラムHECPはドアノブにプレートを吊るすだけで「自宅」はカフェに早変わりする自宅開放運動です。日本にはすでに「数千万」のカフェの設備があり、「数千万」の家庭料理の料理人が存在する。ホームエレクトロニクス・カフェはどこの家庭にもある家電を使ったキャッシュフォーワークによる自宅カフェ。ドアノブにプレートを吊るすだけで「自宅」はカフェに早変わりする自宅開放運動だ。
ホームエレクトロニクスカフェは自宅空き地や遊休物件公共施設などどんな場所での活動が可能だ。「自宅」だけにとどまらず、ローテーション方式で公共施設、スクエアな広場、廃校となった小学校や廃屋、遊休物件などで様々にユニークなアイデアによる活動はさらに広がります。また、仮設住宅やキャンプ全体がユニークなカフェの集合体としてスクエアな活動が展開されていくとにより、客や地域が受身で見るだけでなく、演者として参加することを求めるオープンなフェスティバルの役割を果たすのである。
まずは、近隣住民のお茶会飲みスペースとしてスタートしてみてはどうだろう。安全な食材とキッチン家電を使った、シンプルで過度な技巧にこだわらないアットホームなメニューにより誰もが一人でも経営できる無理のないオペレーションで、家族や友人、そして近隣住民によるコンソーシアムやワークシェアリングの概念を導入している。この「小さな仕事場」は「自宅」を利用することで新たなコストは一切かからず、家電製品を活用することにより、操作も簡単・安全で高齢者をはじめ、障がい者、お子様でも十分対応できるお茶会や試食会スタイルのキャッシュフォーワークの市場活動である。
ホームエレクトロニクスカフェの起業は、自宅や全国に点在する空家や廃屋を舞台に、自主独立の経営と社会的使命達成に対する報酬としての、適正な利益に基づく経営の展開を目指している。自宅と家電を使用することで、ほとんど予算を必要とせず、自主学習とオープン&フリーによる参加により、経済的自立や年金・医療・社会保障の問題の解決を目指す。また、高齢者どうしの見守りなどによる地域社会との恊働を積極的深め、得た情報やノウハウは、国や行政を通すこと無く、貧困や疲弊の厳しい地区に向けてリレーショナルに展開しく運動だ。
こうした取り組みにより、財政再建、地方再生、 空き家問題、限界集落、震災復興など日本が抱える社会問題が全て一気に解決するのである。
ホームエレクトロニクスカフェは、家カフェであり、パブリックな空間でありながら、プライベートな空間でもある。その ため、その利用に関しては、一般的な商業施設とは異なる独自のマナーとルールが必要になってくる。
一般的に日本人が考えるパブリックとは、先にそのような空間が公共機関によってつくられていて、人々はそこに行くと公共的なふるまいをしなければいけないという漠然としたものではないか。HECPは、個人個人が〝オープン〟にすることによって各自のもつ価値にアクセスができる。そして、そこからパブリック空間が生まれる」という。
普段は、自分一人だけいるとき家はプライベートな空間だが、お客がくれば、その空間はパブリックになる。つまり、「パブリックとプライベートは対立する要素ではなく、何をプライベートにして何をオープンにし、パブリックにするかということを個人が自分自身で選んでいく自己決定性」だという。
自らの部屋をオープンにしてシェアすることで世界中に宿泊先を提供したり、手料理を地域の人とシェアするといったさまざまなシェアリングサービスは、「個人個人がいろんなリソースをパブリック化し、シェアすることで、みんなにとってのメリットや価値、経済、市場が生まれるのだ。
草の根デモクラシー運動としてのカフェパーティー
「HECP」ーHome Electronics Cafe Program
「HECP」ーHome Electronics Cafe Programは、2016年から日本で始まった「HECP」(人権・環境・コミュニティ・公共)の世界規模の草の根デモクラシーの運動である。 世界最大のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)であるFacebookを通じて「HECP」Home Electronics Cafe Programという運動体の結成を呼び掛けたのが初め。 立ち上げるに当たってカフェパーティー運動は政治的対立色の強い米国ティーパーティー運動と違い、独立概念としてのリベラルを志向し、社会変革を芸術の領域から、対話と協調、多様性を重視し、その実現可能性と持続可能性を図るものである。特徴としては高齢者が主体であり、Facebook・Twitter・YouTube等の現代的なオンラインツールも活用しているが、あくまで運動の核となるのはゲマインシャフトとしての「家」であり、リージョンと呼ばれる「地区」である。
そして、そのターゲットは、社会学者であるエベレット・M・ ロジャース(Everett M. Rogers)によって提唱された、イノベーター理論による全体の2.5%という非常に少ないタイプのイノベーターターゲットである。
KADAMO R.E.「世界を変える小さな家。」〝HECP0357〟
KADAMO R.E.の小さな住居、路地には、様々なマイクロポップアートがきめ細かく並べてられている。小さな家や地区空間でも、創意工夫で美しいギャラリーやミュージアムになる、というわけだ。路地裏アートの家ギャラリーは、高密度に暮らす〝ガモウ〟ならではの展示手法。ポストミュージアムとともに、身の回りの小さなところからアートを育てていくこの伝統技術を深め、地区全体に広げていくことが重要になってくる。小さなアートを路地、玄関、ベランダなどに持ち込み、できればご近所で相談しならが調和のとれた地区全体のアート化につなげていく。開発により都市をアート化し、アートを増やすことはすばらしいことだ。しかし、〝KADAMO R.E.〟には〝KADAMO R.E.〟のやり方がある。小さなアートを慈しみ、それらを近隣で分けて、どんどん増やしていく。その過程で、近隣とのコミュニティが密になり、地区にコミュニケーションが広がり、スマイルが増えていく。安全で安心できる住みよい美しい町が育てられていく。これが本来のアートによるまちづくりの目的であり、KADAMO R.E.的な都市アートの目標と言えるのである。
『日本を苦しめるおもてなし精神』〜できすぎず、もてなさず〜「行き過ぎた便利さ」と「行き過ぎた快適さ」からの脱却による「労働」の復権である。
リソーシズと呼ばれる高齢者による起業と倫理消費者による「売り手よし、買い手よし、世間よし」、「三方よし」の「志の高い理想の市場社会」の形成
日本の「おもてなし」は、いい意味でサービスの「プロフェッショナルイズム」とも言えるが、一方で「客」という概念が未成熟な「見た目主義」のサービス社会であるとも言える。細部への行き過ぎたこだわりが過剰にモノの命を無駄にしている場合も多い。「行き過ぎた便利さ」と「行き過ぎた快適さ」からの脱却を可能にするために、倫理消費者=志のある客へのパラダイムシフトが必要である。
日本では、スーパーで買い物をするだけなのに、店員さんは丁寧に両手を揃えてお辞儀をしながら「いらっしゃいませ」と挨拶。接客中も笑顔を絶やさない。日本の接客が素晴しいの間違いないが、「どんな場所でも、“おもてなし”されて当たり前」とする日本文化は、実は世界から見たら異常なのである。レジなどでの「ありがとうございました。また、お越しくださいませ。」などの対応は限られた時間の中で土台無理がある。次客の対応も遅れ、業務の集中度を低下させる。少額購入の客側などには逆に恐縮感を与えるだけでなく、レジ通過進行のリズム感も削がれ、精神の伴わない儀礼は誰も喜ばないのである。
日本の"OMOTENASHI"を海外に売り込もういう戦略があるみたいだが、確かにそのホスピタリティマインド自体はたいへん尊く、事実、日本では古くから旅館や料亭など様々な業種業態において日常的におもてなしの精神が実践されてきた、日本の伝統財産であり、たいへん素晴らしいものである。しかしながら、その奥にある精神性を踏まえずにその形象だけをマニュアル化して、猫も杓子も同じようにおもてなしというのは如何なものか。老舗や高級店だけではなく、一般コモディティーのサービス業に対し、広範囲にマニュアル化した過度なおもてなしのサービス基準を導入することによって、働く側のメンタルなストレスが顕著化し、高齢者や障がい者の雇用を閉め出し、さらに、若者ですらこのような不況下の求人状況でもサービス業に人が集まらないという、雇用のミスマッチも生み出している。確かに一見細やかな心配りというのは素晴らしいが 、その反面細部への行き過ぎたこだわりが過剰にモノの命を無駄にしている場合も多い。そもそもそれ以前に、大の大人が子供に対して「いらっしゃいませ。ありがとうございました。またお越しくださいませ。」などというのはかなり違和感を感じる。声をかけるのであれば「車に気をつけて帰るんだよ。」などの方が気持ちが伝わりやすいのではないか。また、帰り際に手を振ってあげれば、言葉自体特に必要はない場合もある。「我々日本人が“おもてなし文化”を称えれば称えるほど、我々は自分で自分たちの首を絞めている」生きるには“最高”、働くには“最低”な国である。
ホームエレクトロニクスカフェの様々ユニークなシステム。〝CLOSED OPEN〟クローズドオープン、と〝SLEEP〟 スリープ、そして〝JUSTICE〟コンセプト
最近マスコミ報道などで、観光での中国人をはじめ外国人のマナーの悪さが特集されることがあるが、中国人や外国からの観光客は文化も違い、受け入れ側の啓発により、今後の改善も期待されるが、KADAMO R.E. のある大阪地区は、伝統的に、客としての言葉使いや振る舞いに関しても世界に類を見ない独特の文化があり、その利用に関しては、一般的な商業施設とは異なる独自のマナーとルールが必要になってくる。持続可能な経営を目指すためには、客のセグメンテーションが何よりも重要なのである。
スリープとは、省電力の待機電源モードのことである。通常の起動状態と比べると大きく電力を節約できる上に、起動中のプログラムなどを終了させることなく、素早いリブートが可能となるといった利点がある。クローズドオープンは、「少し開いている」という概念である。1995年から2005年に実店舗においてのサービスの実験的運営により導き出された、会員制や一見様お断りのシステムとは違う、JUSTICEサービスコンセプトに基づいたオペレーションシステムだ。ホームエレクトロニクスカフェは、オープンもクローズドもない。なぜならここはパブリックネスな〝家〟であるからだ。自宅の公共化=パブリックネスの理念の下での自宅開放=オープンであり、その利用に関しては、客のセグメンテーションが何よりも重要なのである。また、一般的な商業施設とは全く異なる独自のマナーとルールが必要になってくる。
メニューコンセプトは、キッチン家電を使ったアットホームな料理を提供、つまり、素人料理だ。自己学習で専門的には勉強していない。エスニック料理やイタリア料理などというカテゴリーからもはみでている。なんでもありのメニューバリエーションだ。ボーダレスな家庭料理である。発想の自由で、好奇心を総動員して情報・知識・材料をごちゃ混ぜにして創る。また、自然環境を中心に身の回りのあるいろいろなものを大切にする思想。つまり、材料を揃えようと思うよりも、手元にあるものをや残ったものをどう利用するか、どう再生するかという「もったいない」という精神。過度な技巧に走らず、多少不細工でも美味しくて、ボリューム満点。でも、どことはなく、おしゃれでアーティステック。「階調」を意識したマスプロダクツよりも「乱調」の楽しさ・面白さがある。
JUSTICEはホームエレクトロニクス・カフェのユニークなサービスコンセプト。お客様のマナーレベルに応じて公正にサービスを行なうのである。ホームエレクトロニクス・カフェではマナーレベルの高いスマートなお客のみに客層をセグメントし、家と同じように自由にくつろいでもらいたいという考え方だ。また、料金面においてもご予約やノースモーキングのお客に関しては精算時においてのディスカウント、逆に、携帯電話の使用や大声での談笑などの他のお客や近隣住民ご迷惑になる行為は全てオプションチャージを設けている。また、あまりにもマナーレベルの低いお客に対しては今後のご利用を断る場合もあるが、お客はその人柄やマナー以外ー年令・性別・国籍・業界・地位等による差別を受けることはなく反対に、それらによる特典的サービスもないのである。
ホームエレクトロニクスカフェという「家」の特色はオープンソースであるということがいえる。誰しもが自由に参加することが出来、プロジェクトを発展させていくことが可能なのである。参加者はアーチストだけではなく、学者や社会学やジャーナリズムを専門としようとしている同世代の人たちが参加し、全く一緒に行動している。有名なタレントや文化人、大企業の社長や大学の教授だからといって全く特別扱いされることはない。過去にもマスコミメディアがドキュメントを作りたいといってきて、私たちに強力しているので参加費は払いたくないと言ってきた。私たちはいろいろと話した上で彼らの参加を断りました。このプロジェクトの触媒性を保つためには、内部に特権的な人間を作ってはいけないのである。
地域での集団による見守りアプローチ:地域包括ケアの未来
ホームエレクトロニクスカフェ
今後高齢者はますます増加し、地域で独居も増えていく。孤立し、支援を必要とする高齢者が増えてくるという見立てがあり、独居老人や下流老人などの情報の尻先端に群がるマスコミや学者などによる言葉が一人歩きしている地域の人々と一緒にコミュニティカフェを作るというアプローチの背景には、行政による配食サービスや登録ボランティアによる見守りの制度があり、民間でも、見守り機能のある機器やサービスが作られ、個人的に活用する人が増えている一方で、地域の近所付き合いは減り、町会や敬老会の組織率は年々低下しているという現実がある。そこで自助と共助の力を見直そうという動きが出てきた。私たちは、自助、共助、公助のすべてが活発に機能することが必要であり、ホームエレクトロニクスカフェはその取り組みの1つであり、高齢者の自助を主体とした独創的なアプローチを展開している。現在は様座なな地域にコミュニティカフェが出来ているが、自宅開放カフェHECPの特徴は「芸術」を通して、地域の中での役割や地域との関係が再構築されるという側面である。行政の見守りサービスは行政が内容を決め、市民にその決められた内容を委託する1方向的なものである。ホームエレクトロニクスカフェの場合は、市民が地域づくりの主体として自ら運営し、内容を工夫する。地域の高齢者の人材を活用し、団塊世代には会社勤めを終えた企業の各部門のプロ、料理上手な主婦、クリエイティブな自営業、研究者など様々な高齢者が点在している。その皆さんがカフェをきっかけにして出会い、退職後役割がなく家に閉じこもりがちだった方がカフェ運営に関わる中で自分の役割を見出し、生活に活気を取り戻すなど見違えるように生き生き。高齢だからといって、皆が人に世話されることばかり望んでいるわけではない。それよりも、仲間と健康に楽しく生活したい、社会貢献したい、社会の認知を得たいという意欲のある方が多いのである。地域に暮らす人間同士の対等な関係から生まれるやりがいや楽しさという求心力を高齢者自身の手により構築していくということがホームエレクトロニクスカフェの存在理由である。
ホームエレクトロニクスカフェの運動の起こし方。最初の観客と「六次の隔たり」。全ての人や物事は6ステップ以内で繋がっている。
イノベーターターゲットにとって、「最初の一歩」には、大きな勇気が必要である。その小さな一歩は、社会を変革するイノベーションの歴史的な一歩であるからだ。
ホームエレクトロニクス・カフェのスタートアップは、ドアにプレートを吊るすだけだ。 しかし、その「最初の一歩」には、大きな勇気がいる。その一歩は、社会を揺さぶるイノベーションの「大きな一歩」でもあるからだ。それを支えるためには、ここでは「最初の観客」が重要な役割を担ってくる。この新しいフェスティバルでは、HECPという理念の共有により、「観客」と「演者」の境界をとりのぞき、町が自己表現をするのを手助けする。そして、「観客」も作品を作り上げる重要な役割を担うのである。
ホームエレクトロニクスカフェはドアにプレートを吊るすだけである。しかし、その最初の一歩はすごく勇気のいる。このようなカフェは他に存在しないからだ。パラダイムシフトを起こそうと思うなら ついて行く勇気を持ち 他の人達にも その方法を示すことです スゴイことをしている孤独なバカを見つけたら 立ち上がって参加する 最初の観客となる勇気を持つことが重要である。その一歩を支えるためには、ここでは「最初の観客」が重要な役割を担ってくる。「最初の観客」はみんなにどのように利用すればいいか示す役割がある。「最初の観客」はこの物語を共に発展させていく重要なフォロワーだ。これは、実はリーダーシップの一形態なのである。こんな風に目立つだけでも勇気がいり、最初のフォロワーの存在が 1人のバカを リーダーへと変えるのである。そして、2人目のフォロワーが現れ、 今や1人のバカでも 2人のバカでもなく、2人目 3人というのは集団であり 集団というのは周辺地域でニュースになり、運動が公のものになっていく。リーダーだけでなく 最初のフォロワーの役割が重要となる。新たな観客たちは最初のフォロワーを真似るものである。さらに2人が加わり すぐ後に3人が加わると、今や勢いが付いてくる。臨界点に達し 1つの運動になってくる。 多くの人が加わるほど リスクは小さくなり、 どうしようか決めかねていた人達も 今や加わらない理由はなくなるのである 。もう目立つことなく、 笑われることもない。 急げばコア集団に入れるかもしれない。やがて、みんな集団に入ろうとする。 加わらない方がかえって バカにされるからだ。 これが運動の起こし方なのである。本当に運動を起こそうと思うなら ついて行く勇気を持ち 他の人達にも その方法を示すことです スゴイことをしている孤独なバカを見つけたら 立ち上がって参加する 最初の人間となる勇気を持つことが重要になってくる。
全ての人や物は6ステップ以内ですべてがつながっている。「六次の隔たり」、英語では「Six Degrees(シックス・ディグリーズ)」と名付けられたこの仮説は、スタンレー・ミルグラムの実験を裏づけとして広まったものだが、地球上の70億人全員が案外近い関係にあるというこの仮説は、多くの科学者を引きつけてきた。
The regionーインダストリー2.5が目指す世界とは?
第2.5次産業革命〝リソーシズ〟の挑戦
「Industrie 2.5」という言葉は今、間違いなく世界経済における重要なキーワードだろう。2.5とは産業革命における電気とインターネットの間を指す。政府や研究機関、産業界などのエスタブリッシュメントの機関は通さない、このマルチチュードによる第2.5次産業革命と銘打った日本の国家戦略は、果たして壮大な夢物語なのか、それとも時代の必然か。「インダストリー2.5」は、モノづくりの現場を変えるだけでなく、HECPー人権・環境・コミュニティ・公共などの社会問題の解決にも繋がるという。国際競争力の強化と、世界を牽引するリーダーとしての日本のプレゼンスに向けて動き出した日本の本気が、じわりじわりと世界を巻き込もうとしている。企業や業界だけでなく、一般消費者の生活にも大きな影響を与える動きとして注目しよう。
「電気」と「インターネット」の間
オルタナティブな産業革命ーリ・コンシャスなアーツアンドクラフツ
人口知能、ロボットテクノロジーや自動運転などについても、マニュアル操作による機械と人間の役割の距離感の原点回帰のアプローチの方が安全に対して合理的で実現可能性は高い。テクノロジーとは、本来目的ではなく目標であるはずが、いつの間にか目的化してしまっている。テクノロジーが求める生活の便利さや快適さに対するオルタナティブな価値観が必要になってくる。物事には一元ではなく多層なアプローチが必要である。つまり、生活の簡素さと技術の簡素さという時代に流されない普遍的な命題を忘れてはならないのである。
現在、人類は、テクノロジーの大躍進のさなかにありながら、史上初めて、従来の意味での発展を続けることが多くの人に苦しみをもたらすことに気づいたのだ。それでも、私たちは、無理やり前進を続けている。ではそのような破滅的な結末を避けるために、何をすべきなのか?何よりも、自分たちを消費へ駆り立てる勢力の、偏狭的なものの見方を拒絶しなくてはならない。
第2・5次産業革命とは?テクノロジーの限界と進歩のパラドックス
第一次第二次第三次と続く、産業革命後の科学技術の急速な進歩は、際限のない生産と利益追求、抑制のない消費の結果としての廃棄物の山は「芸術」では決してない。ITや科学技術の急速な進歩は、人間の衣食住や医療などの良好な生活や環境や安心を、ひとまずは生み出したかにみえている。しかし、デメリットとしてさまざまな環境汚染や資源の有限性への心配がある。経済活動における「大きな工場」でのモノの生産が人間に幸福をあたえる万能のものとは云えなくなった。また、省資源や環境汚染防止のための技術的研究が続けられている。このことは、確かに再び科学技術による解決を目指すという循環の中にある。しかしながら、さまざまな法律や規制により、現状からの方向転換を図ろうとしているが、科学技術や法による転換の方法は、更なるパラドックスを生み、個人の行動についてみるとき、人間本来のあるべき姿を再認識させていく力はここでもまた万能ではない。 「小さな仕事場」でのモノ作りは手工業であるため効率的ではなく、金銭的利益も少ないものである。しかし、現代文明社会への疑問を抱くときに、もうひとつの価値観、もうひとつの生活様式を認め合っていく社会、そのなかでなりたつ経済生活はどのようなものであるかについて、考えつつ実践していこうとする人びとへの「教育効果」は、人間の本性にたちかえって考えるものである。人間自身の五感の再開発を促し、体験を通して自然への畏敬や人間どうしの尊重や信頼を深めていこうとする態度が日常的に存在することが、たとえITやハイテクの時代にあって、分業の発達している時代においても、どうしても必要であろう。このようなことが次世代への贈り物であると思われる。 現代では、労働の至高状態として芸術というものが設定されている場合が多い。不自由な労働から開放された彼岸に、芸術が存在すると考えられがちである。つまり、日常と非日常ー労働の目的として、芸術が考えられている。ところが、インダストリー2.5では、この関係が逆転している。 芸術の目的こそ、労働であり、クラフトマンシップという概念が成り立つのは、このような「労働の喜び」がアーツアンドクラフツの先に見ることができるからであるとする。そして、IT時代においてのクラフトマンシップはアマチュアの世界での日常性がは「家と地区」の共同体であるThe Regionでいかされ、これがアートとコモディティの実践的統合を図り、日常を芸術的に生きる基礎とするのである。教育や啓蒙の場面では倫理的に人間が自然と共存していくことについてのひとつの方向を内包し、来るべき人間の活力の源泉の在りかを指し示している。
リ・コンシャスにおけるアーツアンドクラフツ。アートと工芸をつなぎ、消費者と生産者をつなぐ〝社会デザイン〟の理想を求める
リ・コンシャスとは主張する生き方である。 材料を揃えようと思うよりも手元にあるものや残ったものをどう利用するか、どう再生するかを考える。「もったいない」という精神。 自然環境を中心に地域や身の回りにある素材、不要なものやガラクタを分解したパーツを徹底利用し資源を大切にする思想、アラウンド・リソースという考え方。素材を生かし決して過度な技巧に走らず、多少不細工でもどことはなく愛嬌がありアーティステック。そして、何よりもインパクトにあふれ存在感抜群。リ・コンシャスのモノづくりは食や住空間、地域や都市に至るまでそのクリエイティブなスタイルは存在感抜群で強い主張があふれている。リソーシズと呼ばれる高齢者のハンドメイド・スキルを高めICTや市場原理主義によって奪われた”手仕事”そしてクラフトマンシップを取り戻す。これからのアートはコモディティとして社会の細部に至るまで重要な意味を持ち、都市や国家もそうした無数の集合体としてのアッセンブリーだと言える。21世紀の世界を変えるのは、従来の発想のアート教育を受けたアーチストと言われる人々ではなく、アール・ブリュットの感性により何かを創造できる無名の人々だ。 今ほど、アートの果たす役割が大きく問われている時代はないのである。
さらに、インダストリー2.5では、工場と倉庫、流通経路、販売店など、関連施設すべてを世界中のマルチチュードたちが、自己学習とクラウドネットワークで繋ぐ。将来的には、企業や業態の枠組みを超えてネットワークを結び、世界の疲弊地区、紛争地区、災害地区における「小さな仕事場」を「1つの大きな工場」に見立てるという構想を描いている。 生産や流通工程の最適化を進めると、これまでの「集中型」から、「分散型」「個別型」に生産サイクルの考え方が逆転するというパラダイムシフトが起こり、工場はもはや製品を画一的に大量生産する場所ではなくなる。顧客のニーズの多様化を反映した特注品を、低コストの大量生産プロセスで実現する「マス・カスタマイゼーション」の時代が到来する。
いつまでも「日本製は最高!」を過信。世界から取り残される日本人。日本のモノづくりにおける芸術=構成力の不足
既に、日本製に匹敵するほどの味を出せるような中国製の炊飯器が、中国市場では出てきているのです。これまでは日本製よりも中国製のほうが品質が悪かったという背景があったからこそ炊飯器の爆買いの話は成立するわけで、それが根本的に覆されることが起ころうとしている。その新しい中国製の炊飯器を開発したのは、日本の旧三洋電機の炊飯器部門の開発部長なのです。要するに、高性能な日本製を作っていた日本人が、中国に買われて中国製を高性能にしているのだ。そうなってくると、日本製だ中国製だという比較は意味が薄いものになり、「日本製は良いものだ」と信じていた日本人は、あっという間に取り残されてしまうことになる。日本と外国を分けて考えるから流出だ喪失だと騒ぎ立ててしまうわけで、「良いものを日本から作っていく」という本質さえきちんと軸に持っておけば、場所が変わろうが別に大した問題ではないのかもしれないが、本来のモノづくりの思想においては、中国人が爆買いするからとか、どこの国が好況だからとか、そういうことを気にして経営戦略を立てるのではなく、「どんな時代にも求められる物は、どんなものなのか」という本質をきちんと理解するべきなのである。
デザインの本場欧州では、「モノの在り方」からデザインする。このままでは近い将来、日本のデザインは中国企業にも負ける日が必ず来る。
今、アジアではデザインブームが起きている。特に中国は“デザインは新しい資源”と打ち出して、1000以上の大学にデザインの専門課程をつくり、今、60万人以上の学生がデザインを学んでいる。中国の20、30代の若者デザイン人材の多くは、米国や欧州のデザイン先進国で留学した経験がある。デザイン産業育成を巡る中央政府の意志も強い。中国当局は、デザイン産業などの競争力を高め、「製造」から「創造」へと経済構造を変える必要があると強調した。
「中国企業各社のデザインの技術が、予想より極めて早いペースで成長している」と言われている。「中国製品は、韓国製品と比べても、まだまだ洗練さは落ちているが、この傾向が続くことになれば、まもなくそのギャップは無くなるだろう」と見込んでいる。
技術力に続き、デザインにおいてもそのギャップが縮まってい中国デザインの潜在力は、北京にはデザイン関連企業だけでも2万社以上ある。北京就職人口の3.8%の約25万人が、デザイン関連産業に携わっている。関係者は、「北京が、世界のデザイン産業の新たな主要拠点として浮上している」とし、「上海だけでは、中国市場や消費者トレンドをきちんと把握するのが難しく、北京にもデザイン研究所を設立することにした」と説明した。中国では、これまで他社ブランドの製品を作る(OEM)が経営の中心だった企業が、自社ブランドを立ち上げようと躍起になっていて、デザインが注目されるようになってきた。巨大なマーケットを背景にデザインも活発化している。韓国でも同様にデザインフィーバーが起こり、大きなデザインセンターを作り、ソウルは極東のデザイン・ハブ都市を目指している。デザイン、マーケット、経済の三者は一体化しているところがあり、経済が活発に動いているアジアの国々では、デザインに関する動きが活発になっているように感じる。
「デザイン大国であるイタリアには大きなデザイン学校はない。イタリアの近年のデザインは、暮らしの中から生まれてきているといえ、イタリア人の家は、人を家に招いたり、招かれたりするサロンになっている。人と人との交流場所です。そこから素敵なものを家に置きたい、人生の素敵な舞台を作りたい、という気持ちが生まれて、それがデザインの土壌になっているのである。
残念ながら日本では、モノを作っても『アートな良質ものを買って暮らそう』というマーケットが育たなかった。日本ではなぜデザインやアートが育たないかというと、結局『マーケットがない』という単純な理由である。結局、日本のデザインやアートを復興させるには、私たちが持続可能な、簡素でアートな暮らしを始めなければならないのである。
〝マイクロポップ〟と〝アッサンブラージュ〟。アッサンブラージュとは寄せ集めることと、未完全であることである。
『マイクロポップとは、制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼らず、様々なところから集めた断片を統合して、独自の生き方の道筋や美学を作り出す姿勢を意味している。』
『マイクロポップは、マイクロポリティカルでもある。文化の制度的な思考の枠組みやグローバルな資本主義や情報網による物神崇拝に抵抗して、「いまここ」の実質的な条件や要求に応えながら、独自の知覚や創造の場を見いだし、確保しようとするその姿勢は、個人の自発的な決定能力の、つつましいが力強い主張を示すのである。』と提唱している。
アッサンブラージュは、決してパロディでもなく、パスティーシュでもない。(パスティーシュとは模倣ー思想的、形式的独創性や個人の感性を介さずに。その歴史的重みとは無関係に、スタイルとしてだけ装飾的に引用する表現である。)また、伝統的な形態に回帰して、歴史の流れを無視して形式だけを借用するという、単なるポストヒストリーなアレゴリー的衝動ではなく、コラージュでもなく、シュルレアリスムでもない。アッサンブラージュとは用の美であり、アッサンブラージュとは、構成の一部になるアートであり、コモディティである。つまり、物心は二相ではなく不二である。
〝アッサンブラージュ〟は、芸術を生命運動として捉えたフラクタルでスペクトラムな〝断片〟の連続を意味する。芸術の世界において、本当の〝オリジナル〟を表象する作家などほんの一握りに過ぎない。生活の中のありきたりの〝断片〟に込められた意味を寄せ集め、新たな〝断片〟を映し出すことで観客に真実を知らせることが〝アッサンブラージュ〟の役割でなのである。
つまり、アッサンブラージュとは「未完全な部品」という概念であり、アートもコモディティーもなく、現代アートもアウトサイダーアートもアールブリュットもなく、高齢者も障害者も女性も子供もなく、ブラックもホワイトもラティーノもエイジアンもなく、ただ“アッサンブラージュ”があるだけなのである。ということである。
〝スクラップアンドラブド〟ーアップサイクル
壊れたり、汚れたり、不完全なモノにも価値を与える社会にはゴミという概念は存在しない。
KADAMO R.E.では〝スクラップ〟はゴミではなく、アッサンブリーとしての小さなマイクロポップだ。
リ・コンシャスのスクラップアートはゴミがアートになったのではなく、もともとゴミなどではない。また、モノはいずれ壊れる、その時はまた新たなマイクロポップとして寄せ集められ、別のアッセンブリーに生まれ変わる。リサイクルはこうした命の循環のアップサイクルであるといえる。
残念ながら、現在の日本のアートシーンにおいては、西洋の伝統的な美意識による、既成のプロポーションに対するコンプレックスや「新品崇拝」により、「古いもの」、「不完全のもの」には非寛容である。しかし、日本には古来より伝統的に世界に類を見ない「侘び寂び」という素晴らしい美意識が存在する。「侘び寂び」都市構想は、世界に向けて日本のプレゼンスを示すソフトパワーであると言える。
現代日本人は「傷もの」「汚れたもの」「壊れたもの」に非寛容である。それは時として問題の本質を隠蔽し、本当に大事なことを見失うことになる。完璧を目指さないこと。不完全、曖昧さを許容すること。重要なのは、世の中に「完全」は存在しないということなのである。
[リ・コンシャス/モノの5原則]
◎ 廃材廃品を利用している。
◎ 手仕事の一点モノである。
◎ 過度な技巧にはしらない。
◎ 所有するよろこびがある。
◎ 破損しても転用ができる。
The regionー日本のスタートアップ地区ーKADAMO R.E.のロールプレイングアート「リボットクエスト」。
シリコンバレーから世界を席巻する、リアル・アンドロイドへの"挑戦"の物語。
中古家電をアッセンブリーとした”アップサイクルなポンコツロボット”「日本ではロールプレイングアート「リボット・クエスト」が話題を呼んでいる。」
◎リボット・クエストとは?
オランダのアートコレクターは一般の市民が多い。この美術購入の一般性が、市場を特別なものではなく気軽なものとしている。もちろん価格は低く抑えられているが、それでもこの国のコレクターの多さは特筆に値する。
アーチストが作品を作り、ギャラリストがセールスをし、それをコレクターが買う。この健康的な文化の経済的循環によってアーチストが作品を通じて経済的な利益を得て、経済的にも、文化的にも社会の中での役割を認識できる。
日本のスタートアップ地区ーカダモ地区。リソーシズや障がい者の手によるローテクニカルでアップサイクルな愉快なポンコツロボット。ユーズド家電やジェネリック家電をアッセンブリーとした、アップサイクルーリボットの開発が行なわれている。リボット・クエストとは家電立国である日本のリ・コンシャスなアップサイクル家電ロボットのロールプレイング・アートだ。キーワードはフリー・オープンだ。運動の理念に共有できたら、自由に参加し、周囲とコラボレーションに向けてアイデア・情報・行動をシェアし、そして、プロセスをオープンにしながら形象していくのである。その「アート探検物語」の主人公はリソーシズと呼ばれる高齢者や障がい者たちだ。日本のアール・ブリュットは海外での評価も高く、チャレンジドパワーによるリボットのアーツ&クラフツはインダストリアル2.5のジェネリックな家電機能を搭載、決して過度な技巧に走らず、廃材や不用な部品など、手元の資源をどう再生するかを考える。リ・コンシャスの環境生態系アートは、存在感抜群で強い主張があふれている。また、リボットのアーツ&クラフツは現代アートの領域だけではなく、コスト意識を持ったアートとコモディティの統合表現として、デジタル・サイネージなどのBtoB領域へ持続可能な事業としてアプローチを展開していく。リボット・クエストはシリコンバレーから世界を席巻するリアル・アンドロイドへの"挑戦"の物語であるこれからのアートはコモディティとして社会の細部に至るまで重要な意味を持ち、都市や国家もそうした無数の集合体としてのアッセンブリーだと言える。21世紀の世界を変えるのは、従来の発想のアート教育を受けたアーチストと言われる人々ではなく、アール・ブリュットの感性により何かを創造できる無名の人々だ。 今ほど、アートの果たす役割が大きく問われている時代はないのである。
また、リボットのアーツアンドクラフツは現代アートの領域だけではなく、デジタルサイネージ、POPツールしてBtoBの提案を行なっています。過度な技巧やアート性を廃し、誰もが参加できる。そしてコスト意識を持って市場展開を図ることにより持続可能な事業として取り組んでいきます。また、チャレンジドたち、とりわけ子供たち世代がアーツアンドクラフツにより得た環境・アート・ メカのノウハウは、将来の日本の家電エレクトロニクスの中枢を担うニューパワーとして、また、地域においてはロボットやEV(電気自動車)分野のベンチャーを生み出すインキュベーターの機能も果たしていきます。
アートとしてのrebot「ダブル・イマージュ」
〝役立たず、ロボットの有用性〟
不完全な素材形状を不統一なパーツアッセンブリを自由に動かし、組み替えることができる。この性質をふんだんに利用し、生み出されたのがあの奇妙な身体をもつ〝リボット〟の数々だったのである。〝リボット〟の身体は奇妙さはもちろんだが、ユ ーモラスな感じも与えられている。ショークの作品の数々は概して、「幼稚」で「プリミティブ」なものとして 消費されているようだが、それは作家の意図するところからは微妙にずれてい るとはいえない。それならば、ショークによるあの奇妙な身体の〝リボット〟は不完全であることの正当性を表象している。「完全」という概念に対して、〝リボット〟という直接的には社会的有用性のない「オブジェ」雑貨 を生み出すという皮肉をきかせたものだった。「表向きは不完全と称されているものこそが、じつは悦楽」であり、それこそが「完全な有用を目的とする場合に必ずついてまわる不快の感情を追い払ってくれ、 好奇心にそって表通りを外れた横道のかずかずを教えてくれる」のだという。 存在そのものに意味を求める多くの〝リボット〟は人間の身体から大きく異なった形態をしているが、そこに身体パーツが含ま れていることからそれが人間を模したものだと理解することができる。
日本的アニミズムが世界に広がる最近の妖怪ウォッチや、LINEのスタンプを見ても日本人はキャラクター好きである。欧米でもポケモンは人気があるが、日本人と欧米人では、ポケモンに対する考え方は全く異なる。日本人の子供はポケモンに、人間に対するような深い愛情を感じているが、欧米の子供にとっては、あくまでポケモンはペットなのだと思う。そして、若い欧米人が、こういった日本的な考え方、感じ方に憧れ、実際に日本人化し、日本のキャラクターを愛するようになってきているのである。人が作った物にも神霊は宿り、人形浄瑠璃では、人形を人間以上に生き生きとしたものにし、観客は人形に強く感情移入する。ものを捨てられない人というのは、アニミズム的発想で、全てのものに神霊が宿っているのだから、畏れ多くて捨てられないという想いもあるかもしれない。しかし、自分のところから離れたって、それがなくなる訳ではない。むしろ、自分が手放すことで、それが別の形になって流転し、人間からすれば長いが、宇宙にとっては一瞬の時間で、新しいものに生まれ変わるのである。寄せ集めること、未完全であることが「アッサンブラージュ」の原点である。
各身体パーツは、頭‐胴‐脚というように本来は連 続しており、分かれては存在していない。つまり各々の「パーツ」の存在とは、 ことばに対応した概念レベルでの区切りに他ならないのである。そのため「全 体像」が解体され、本来あらぬ位置に部位が配置されるとき、概念レベルでし かありえないはずのパーツがそれとして「現われ」てくる。「馴れ親しんだも の」であるからこそ、それは「不気味なもの」として現われるのである。ひとつきりの表象では複雑に変化していく「現実」を描きとめるのは難しい。この「二重写し」の現実をショークは「ダブル・イマージュ」と呼んだ。ショークの作品はあらゆる対象には「広がり」を見いだせる。自我とその外界との間に張られたレイヤーに偶然が存在しているのだ、と考 えたがる人もあろう。このレイヤーの上には無意識によって投影される相合する二つのイマージュが重 なり合う場合にはじめて意識にとって目に見えるものとなるのだ。ショークの考える対象の性質は、このレイヤーの構造に集約することが できるだろう。数々の対象は何かを投影されることによって多層化し「目に見 える」現実となるのである。
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