人間には、選んだのではない事実、いやおうなく人間存在につきまとう事実がある。
これらの事実性は行動の次元で人間につきまとう「状況」として把握される。行動は人間の自由の表現なのであるが、この自由というのは常に「状況における自由」であり、抵抗する世界に拘束されたものとしてしか人間の自由は存在しなかったのである。
そして、これもまた、自由の把握が個人的実存のレヴェルから社会的人間のレヴェルへと発展していくための萌芽だったといえるのである。
The regionの「家」は、自己を外部からまなざす主体としての他者を強調し、他者によってまなざされ、対象化されることによって成立する「私的」の「対他存在」を確認する。
「私的」は自らが選んだのではない意味を他者によって与えられる。自由な主体であったはずの「私的」は、他者によって一個の対象として意味づけられる。ここで「私的」の自由と「公的」との共有の接合点が決定されるのである。
自由というのは、この事実を承認し、何らかの仕方で「私的」の対他存在を引き受けることによって成立するのである。このような主体としての他者や「私的」の対他存在の強調は、「家」を社会的次元でとらえる第一歩となるのである。つまり、実存的自由から社会的自由へと発展させる一つの契機といえる。
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